ウィークリー・メッセージ 201733

 

待降節 第1主日 B年 2017−12−03

  

中島町教会担当司祭  イルダラヤージ・アントニサミー

 

 る教会での出来事です。一人の信徒が司祭に対する不満をいつも言っています。自分は正しいと思っています。ミサに与っていても、説教の間ずっと寝ていたり、態度を見ているとあまり熱心に祈っているようには見えません。ある日も説教が始まるとウトウトし始めました。説教の最後に司祭は信徒に向かって言いました。

「天国に行きたい人はお立ちください」。もちろん皆立ちましたが、彼だけは座ったまま、寝ていたのです。

司祭は次に「地獄に行きたい人はお立ちください」と言いました。彼はあわてて立ち上がりました。周りを見れば、立っているのは自分だけです。そして、司祭に向かってこう言いました。「神父様、どんな質問かはわかりませんが、あなたと私だけが同じ意見なんですね」。
 
 さて、イエス様の誕生を待つ待降節に入りました。待降節といえば、いつも以上に注意を払い、意識をする時期です。それはイエス様を迎える準備をするためです。私たちは黙想しながら待降節の意味、目的を考えなければなりません。待降節―それは到来という意味です。ご降誕前の4週間は4つの意味の主の到来を祈ることです。イエスの肉体的な到来、心の中に到来するイエス、私たちが亡くなるとき到来するイエス、裁判官として再び到来するイエスの4つです。通常私たちは2つのことを記念します。それは、イエスの肉体的な到来と裁判官として再び到来するときです。
 
 歴史的に人はたびたび偶像を崇拝しました。そのたびに神から離れます。そしてまた後悔して祈ります。「私が正しい者となるように導いてください」
神はモーセに十戒を与えました。しかし、人々はそれを守らず繰り返し背きます。その都度、神は裁判官や預言者を通して、人々が掟に忠実になるように諭しますが、やはり同じような過ちを繰り返します。人々は掟に対する無知だけでなく、無力感に苛まれていました。そこで、神は御一人子イエスを人間としてこの世に与えてくださいました。それは人を救うためです。聖パウロはガラテヤの信徒への手紙に書いています。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」。(4;4)
 
 イエスがこの世に来られた意味は5つあると思います。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」(ルカ4;18〜19)
 
 キリストは罪を贖うためにこの世に来ました。その引き換えとして、私たちはいのちをいただきました。イエスは言っています。「私はあなたの人生を引き受けている。豊かな人生を送れるように」
 
 イエスが再び裁判官として私たちのところへ来られるとき、私たちはどんな答えを出すのでしょうか。来られるときがいつなのか、それは誰にもわからないのです。だから今日の福音にあるように、いつも「目を覚ましていなさい」ということです。ノアのときと同じように突然、予想もしなかったときに来られるのです。泥棒のように、夜なのか昼なのかもわかりません。ですから油断してはならないのです。

 そして、「目を覚ましている」ということは、「用心している」ということでもあるのです。

イル神父


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