ウィークリー・メッセージ 201734

 

待降節第4主日

  

中村教会協力司祭  稲毛 利之

 

 る週、待降節第3主日は、「喜びの主日」と呼ばれています。第2朗読では、聖パウロの「いつも喜んでいなさい。」との言葉を聞きました。でも、皆さんは本当のところ、このメッセージをどのように受けとめるのでしょうか?「そんなこと言われたって、現実問題、いつも喜ぶことなんてできませんよ。」或いは「チッ」と舌打ちの一つでもしたくなりますか?    そうです。それが人間です。「良い子を演じる」必要などありません。何故なら、わたしたちにとって、「本当のこと」に出会うことが大事だからです。そして、今日の待降節第4主日の「マリアの受胎告知」の物語のうちに、この「喜び」の秘訣が隠されているからです。またそれは、当然クリスマスの「喜び」に繋がってきます。


 受胎告知−天使のお告げを受けて、マリアは男の人なしに子を身籠ります。そしてクリスマスの日にイエスを産みます。しかし待ってください。これはスキャンダルになりますね。旦那さんは一切身に覚えがないのですから。或いは、シスターの誰かがこう言ってごらんなさい。「わたしは神様によって妊娠しました。」――大変な事になります。現代でもそうなのですから、2000年前はもっとです。当時はこのような恥ずべき事に対して、石打ちの刑が適用される可能性がありました。つまり、マリアは石で打ち殺されるかもしれなかったのです。


 「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」子(イエス)を宿したマリアはすぐ後に、こう宣言します。しかしわたしたちが外側から知る限り、マリアの生涯は「幸い」とは程遠い。子を宿すことにより、妊娠事件と誤解され、命が危機にさらされます。夫に心配をかけ、村の人々の疑惑の目にさらされます。為政者によって、臨月のまま遠出をさせられ、夫の故郷に行きますが、旅先の汚い家畜小屋で子を産みます。夫の実家には、場所が無かったのでしょうか?子を産んだら直ぐに、エジプトに逃避行をしなければなりませんでした。その子の命が狙われていたからです。後に、ナザレという村に戻ってきますが、息子が30歳位の働き盛りの時、当時の宗教指導者たちの告発により、裁判にかけられ、十字架刑という、当時最も惨たらしい方法で死刑に処せられていきます。わたしたちの儚い人生の一端が垣間見られます。ここまでではないにせよ、この様な悲劇を生きねばならない人々は、この世に沢山いることでしょう。わたしたちがこのような悲劇と無関係だという保証が何処にあるのでしょう!


 「いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」かくの如き人生において、かくの如く言い得たマリアの秘密を理解するため、一人の精神科医を紹介させていただきたい。ヴィクトール・E・フランクル「夜と霧」の著作で有名な彼は、第二次世界大戦中、ユダヤ人であるがためナチスの強制収容所に収容され、過酷な境遇を生き延びた人物です。この強制収容所の生活の中で、彼は或る「本当のこと」に出会いました。


 制収容所では、以下の問いは一切無意味であり、無益です。「わたしの人生には意味があるのだろうか?」「これから希望や喜び、幸せはわたしを待ってくれているのだろうか?」今日という日、ガス室に送られ処理される可能性だけが延々と続く境遇の中、全ての問いは沈黙の壁に粉々にされます。人はもはや問うことさえしない。そこでは、人は単なる「番号」に変わります。人間らしさは削ぎ落され、人はボロ雑巾のような「肉の塊」に直ぐになっていく。どのようにして彼は、彼自身の「人間らしさ」をつなぎ留めたのでしょうか?


 制収容所で、彼は「人生の意味のコペルニクス的転回」と名付けた、或る「本当のこと」に出会いました。彼の言葉に耳を傾けましょう。
“生きていることにもうなんの期待がもてない”
こんな言葉にたいして、いったいどう応えたらいいのだろう。
ここで必要なのは、生きる意味についての問いを180度方向転換することだ。
“わたしたちが生きることから何を期待するか”ではなく、むしろひたすら、
“生きることがわたしたちから何を期待しているのかが問題なのだ”
ということを学び、絶望している人間に伝えねばならない。
つまり、わたしたちが問うているのではない、わたしたちの人生が、その時が、その場所が、その環境が、わたしたちに問い続けている、わたしたちに期待している、ということに気付き、応えているかということでしょう。例えば、強制収容所の中にいて、その境遇にわたしから「わたしに何をしてくれるか」ということを期待しても無意味でしょう。しかし、例えば、新参者が収容所に収容されたとき、そして、彼が泣いているとき、彼が絶望しているとき、その時が、その場所が、わたしに問い、期待している。わたしはその問いを無視することもできるが、もし、その問いに応え、その人に近づき、体に触れ、言葉を交わすなら、ささやかながらも決して誰も壊すことのできない喜びを身籠ることだろう。そしてそれは後に、堅固な幸いとして産み出されるだろう。


 リアの「幸い」は、彼女の人生を通して、その時を通して、その場所を通して問いつつ期待する「神のことば」への応答により、身籠り、産み出されたのだと言えましょう。彼女は、どの様な境遇の中においても、苦難に囲まれていたとしても、悲劇の最中においても、人は幸せになれる、上からの喜びを身籠り、上からの幸せを産み出せることを確かに証しています。


 て、クリスマスが直ぐそこに近づいています。クリスマスの晩、イエスにとって、彼のための場所は無かったのでした。誕生のときからすでに十字架の焼き印が押されておりました。彼の人生は、宗教指導者たちの妬みにより、十字架の上に追いやられました。しかし、その場所から、天国が始まりました。わたしたちはどうでしょうか?彼の為の場所を用意しているでしょうか?彼の為の場所があるのでしょうか?わたしたちの人生を通して、その時を通して、その場所を通して、問いつつ期待する「神のことば」を聴いているのでしょうか?それに気付いているのでしょうか?応答しているのでしょうか?それが、今日の最も大切なメッセージなのです。

Today's  english article"For the Advent/Christmas retreat - A reflection on the Christian commandments"

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