ウィークリー・メッセージ 201538

 

わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」

 

 宇和島教会担当司祭 田中 正史        

 「誰が受け入れられて、誰が受け入れられないのか?」あるいは「何がセーフで、何がアウトなのか?」という線引きの問題は、現代社会のいたるところにも見られることです。


 たとえば、今ヨーロッパ諸国で問題になっている中東からの難民たち。難民申請が受け入れられるケースと受け入れられないケースを分けるものは何なのでしょうか。ちなみに日本では、シリア紛争が激化したこの四年間で難民認定されたシリア人はたった3人だけです。
 社会の中でより小さくされている者、無力で弱い者の苦しみに共感し、その人たちの立場に立って考えていくことの大切さについて今日の福音は語っています。

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 マルコ福音書9章には、イエスとその弟子ヨハネの対話が記され、ヨハネの一言に対してイエスが答えるというかたちで対話が構成されています。
 ヨハネはイエスに「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちに従わないので、やめさせようとしました」(38節)と語ります。おそらく、自分たちが取った行動をイエスは褒めてくれると思って意気揚々と報告したのではないかと思われます。
 弟子たちは悪霊を追い出す権威をイエスから受けることによって、そのような権威を自分たちのグループの専売特許のように思い、自分たち以外にも同じように悪霊を追い出す者に対して先生の権威を犯す行為と思う老婆心からやめさせようとしたのでしょう。


 しかし、イエスの答えはヨハネにとっては予想外のことでした。「やめさせてはならない。・・・・・わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」(39節)とイエスは答えます。
 「自分たちに従うかどうか」という基準で味方か敵かという線引きし、その人を受け入れるかどうかの判断を下しているヨハネ。しかし、イエスの関心はまったく別のところにあります。
 イエスにとって一番の関心は悪霊に悩まされている無力で弱い者たちの苦しみに共感し、その苦しみを取り除き、一人ひとりの主体性を回復させることでした。そして、そのわざを行ったのは神であり、その人もまた神から愛されているということを告げるのです。
 それゆえ、たとえ、自分たちのグループとまったく異なる人たちであっても、イエスと同じ行為をすることによって同じ効果がもたらされるのであれば、それはイエスにとっては願ったり叶ったりの出来事なのです。しかし、弟子たち、とくにヨハネはこのイエスの思いと神の計画をまったく理解することができませんでした。


 イエスは自分に与えられている権威を特権と考えず、自分の名を使って同じ行いをする人たちを通してもまた神の愛が社会のすみずみにまで浸透することを願っています。そのようなイエスの寛容で無私な心こそが、彼の権威がほんものであり、イエスを通してもたらされる神の愛が普遍的であることを証明しています。
 イエスが「敵を愛しなさい」(マタイ5・44)というとき、もはやイエスにとって敵という言葉は「憎むべき対象」「排除し撲滅すべき者」という排他的な意味を失い、味方か敵かという二者択一の問いそのものを無効にしています。

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 対話の後半で、イエスは厳しい言葉を弟子たちに述べています。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼(いしうす)を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)。ここでイエスが念頭に置いているのは、その前の箇所で弟子たちが誰がいちばん偉いかと議論し合っていたときに、彼らに投げかけた言葉です。
 「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」(35〜37節)
 「一人の子ども」に象徴される無力で弱い者たちこそ神は最も大切にされているという天の父の思いと、このような子どもが真ん中にいるということが神の国の証しであるということをイエスは述べていることをここで読み取る必要があります。
 それゆえ、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者」に対して「海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(42節)とか、「両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい」(43節)「両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい」(45節)「両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(47節)とイエスが述べているのは、無力で弱い者たちを決してつまずかせることがないようにという彼の強い思いと、すべての弱い者たちを救おうとする熱意のあらわれと捉えるべきなのです。

 

<ルイス神父の記事「年間第24主日」に行く 井原マルチン病院院長の記事「年間第29主日」に行く>

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