ウィークリー・メッセージ 201536

 

年間第24主日」

 

 松山教会担当司祭 ルイス・グティエレス        

 トロは誠に率直で飾らない“タイプ”の人でした。イエスに初めて会った時から、彼が示した真心は際立っていました。
 話すのが早く、悔い改めるのも早く、率直で好感が持てました。
 イエスに“あなたは救い主です”と言ってその信仰を表明し、主に褒められました。
 しかし、そのすぐ後で、ご自分の死と復活を予告されるキリストを戒めて、キリストにひどく叱られました。ペトロはどこで的をはずしてしまったのでしょうか。私たちと同様にペトロも罪人でした。欠点があり、不完全でした。


 なぜ、彼はこんなに重要な問題について、イエスにとって何が最善か自分が知っていると思っていたのでしょうか。
 「十字架上の死」なしにイエスは人類を救うことができると考えていたのでしょうか。だとしたら、救いがどれほど人類に必要であったかを過少評価することになります。
 イエスがその苦しみと死によってもたらしてくださった自由を得たいなら、罪と言う古い命を十字架につけねばなりません。そして、それを受け入れるのは難しいことなのです。


 私たちは、イエスが十字架上で私たちのために成し遂げられたことを十分に理解しているでしょうか。


 キリストの十字架は人類歴史の中心となる出来事です。カルワリオの丘で人類は永遠の死からも悪魔の束縛からも決定的に開放されたのです。
 罪は人に死を宣告する力を失いました。イエスの償いによって御父には義を、全て信じるものには天の国の約束をもたらされたのです。
 イエスの償いの御業を理解することは、おそらく“クリスチャン”の人生における最大の挑戦の一つですが、私たちは恵みによってその神秘にせまることができるのです。
 この神の介入という無限の力について深く考えるとき、私たちは神の計り知れない愛と向かい合います。私たちは天の御父と顔と顔を合わせるのです。御父にとって私たちを罪から救うためにはどんな代価を払っても高すぎることはありませんでした。
 神との親しさを生きるように、今日のミサ中、十字架上のイエスを思いめぐらし、イエスと共に古い自分を十字架につけましょう。
しばしば、十字架を仰ぎ見てください。それを心の中に深く刻み込んでイエスのご隣在の神秘でみたしていただきましょう。


 私たちもみんな、キリストの使徒職に召し出されています。それは自分の言葉と行いによってはもちろん、自分の苦しみ、そして自分の病気と死をもってもこの召し出しに応えて、キリストの苦しみの欠けたところを満たすのです。こうして、長い間病床に伏して自分の病苦と死を神に捧げる病人は決して意味と価値の無い存在ではなく、毎日、大きな活動ぶりを見せる活動家や政治家よりも自分自身のため、また社会全体のためにも尽くしているのです。


 このようにキリストの十字架の犠牲に参与する人がいるからこそ、教会の福音宣教、また社会全体のために大きな恵みが与えられるのです。


十字架の知恵は世間の学問よりも深く、十字架の力は世間の活動よりも強い。

 

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