ウィークリー・メッセージ 2023年12月10日

「新しい天と地の訪れ」

小山一助祭


(イザヤ40・1~5、9~11;2ペトロ3・8~14;マルコ1・1~8)

今日の第一朗読と第二朗読でイザヤとペトロはともに「新しい天と地」というビジョンを見ている。ビジョンは単なる空想ではない。信仰の基盤は体験であるが、私たちが人間として(心や魂をもつ人間として)体験したことを言語化するのは容易ではなく、体験そのままを言葉であらわすことは不可能で、音楽や絵、シンボルで伝えたり、どうしても文字化したいときには詩の形となる。旧約の詩編などもその例の一つで、これを文字通りの言葉や理性でとらえようとすると分からなくなる。自分の体験したものを基盤として、自分の魂への響きや心の震え(共鳴)として、追体験することで詩編作者の意図や聖書記者の意図は始めて伝わってくる。今日の朗読においてもて次のような言葉がシンボルとして用いられ、著者たちの見たもの・捉えたものが語られている。

 苦役の時が満ち、
 良い知らせが
 主なる神が力を帯びて来られ
 群れを養い
 私に目を注ぎ
 正義*と平和がいだき合い
 正義は神の前を、平和は神の足跡にしたがう
 主のもとでは1日は千年のようで、先年は1日のようで
 義*の宿る新しい天と新しい地
 傷や汚れが全くなく平和に


 これらは、来たるべき世界としてイザヤやペトロが見た真実(体験)を象徴的に表わしている。(蛇足だが、*神の正義とか義は、私たちの正義や義とは意味がちがう。私たちの正義や義は、常に「裁き・咎める」ためのものであるが、神の正義や義は裁きでなく「傷つき損なわれた愛の回復・実現」を意味している。)

 マルコの福音では、この来たるべき世界の実現のための道筋が語られ、私たちにも、その準備に入るようにとの呼びかけがされている。多くの教会で、待降節に入ると祭壇わきに5本のろうそく(クリスマス クランツ;クリスマス キャンドル)が飾られる。待降節第1主日には最初のろうそくに、第2主日には2本目のろうそくに火がともされる。最初の火は希望の火を、2番目は信仰の火を、私たちの心に灯すようにと。しかし、私たちは何を希望するのだろうか?これは、誰にとっても、この時期に考えるべき重要な問いかけだと思われる。主のご降誕の本質に迫る問いかけである。食べたい・着たい・持ちたいといった「犬や猫と質的に変わらぬ希望」で終わってもよいのだろうか?

 教会暦年の始まりにあたって私たちが持つべき、そして持つことが許され持つように招かれている希望とは、断じてそのようなものではないだろう;私たちを招いて下さって方にかけて。私たちの招かれている希望とは「私たちが、聖なるものとなること、傷や汚れのないものに変えていただくこと」であろう。「傷や汚れのあるのが人間で、そのままで救われたい・救われる」という考えが日本人には根強い。しかし、神は人間を自分の似姿として創られた時から、はっきりと、すべての人を聖化し傷も汚れもない姿と変えて、ご自分とともに永遠の喜びに生きることを望まれ・決意された。神さまが決意された!我々を聖化することが神の決意である以上、キリスト者は自分自身の人生目的にかけて、その道を目指すことになる。

 一方で、多くの人が「私の毎日の生活で、『自分を聖化する』ことなど、夢の夢!」と思ってしまう。もしかすると、良心的な人、まじめな人ほど、そう思うかもしれない(実は、これこそが「罪の罪たるゆえん;Sin‘s sinfulness」なのだが)。イエスさまが繰り返し教えられたのは、信仰とは「御父を信じ・御手に委ね、希望のない時に希望を持ち・待つことができる」ということだった。父はそれほどに私たち一人ひとりを愛し慈しまれていると。イエス様を見つめることが要となる。自分の足元を見つめ始めると、ペトロですら湖の中に沈み始めた。イエス様を信じ見つめることが自己聖成の要であろう。

 キリスト者は本気で不可能を祈り求めることができる(許されている)。あなたの信仰があなたを救ったのは「イエスさまの時代」だけではない。現代においても、見えるところ見えないところで、少なからぬキリスト者が不可能を祈っており、その祈りを通じて神と出会っている。「人は人以上にならなければ人以下になる。」という格言はキリスト者とっても真実だろう。自分の努力では自分を聖化することができずとも、神を信じ神さまの力で聖化されることを信じて求め歩み続けるならば、外面はともかく内的には聖化されてゆくし、「イエス・キリストへの信仰」とはそのような生き方を選べる生き方だろう。

 毎年の待降節と降誕祭は、多くの人にとって心新たに人生をリセットする機会(回心)だ。「いつまでも有ると思うな、親と金」というが、回心の機会もいつまでもある訳ではない。互いに祈り合い支え合いながら、招かれている回心のプロセスを深め合いたいと切に願う。

 旧高松教区は新大司教区へと発展解消し、私の Weekly message も、これが最終回となる。少し長く、また、理屈っぽくなったが、読んで下さってありがとうございます。


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