ウィークリー・メッセージ 2023年6月18日

「天の国は近づいた」

小山一助祭


(出エジプト19・2~6a;ローマ5・6~11;マタイ9・36~10・8)

 今日の福音では、イエスさまが収穫のための働き手として12使徒を選び出し、汚れた霊に対する権能を授けるとともに宣教に遣わされました。最初の宣教にあたってイエスさまは、人々に「天の国は近づいた」と伝え教えるように指示されました。「天の国は近づいた」というメッセージは、イエスさまが公生活を開始されるときに最初に発せられたメッセージと同じです。つまり、イエスご自身も、また、12使徒を派遣する時にも宣教の開始には「天の国は近づいた」という同じ言葉が使われており、「天の国は近づいた」というこのメッセージが、私たちの救いに向けての基本となるイエスさまのメッセージであることを示しています。言い換えれば、御父に向って私たちが回心する時に学ぶべき基本となる気付き(教え)であることを示しているのでしょう。

 イエスさまと同時代の2000年前の人たちだけでなく私たちも、「天の国」や「神の国」と言われても、絵空ごととは言わないまでも、何か遠い、あまり今の自分とは関係のないことのように思いがちで、臨終間近になれば真剣に考えることのように感じているのでないでしょうか。今の私たちにとっては、目の前の現実世界からの日々の情報量が膨大で、避けようとして避けられるものでないために、目の前がいつもチラチラしてしまいます;誰であっても心を鎮めることは難しいです。しかし、イエスさまの「天の国は近づいた」との呼びかけは、こういう私たちに対してのものでもあります。

 2000年前、イエスさまは、人々が待ちくたびれていた天の国が、ご自分の受肉により、私たちのすぐそばに、英語の聖書では”close at hand”と、もう手の届く距離に来たことを告げられました。ちなみに、イエスさまが仰る「天の国」とはお金があってご馳走があるという地上的な富貴ではなく、神さまが私たちの人生にともに居て下さる状態でしょう。お金のある時にもない時にも、病気の時にも健康の時にも、みじめな時にも絶好調のときにも、強い時にも弱くみじめな時にも。神がともに居て下さるなら、私たちは愛と平和が充たされた状態に直結されます。直結されると書いて、「愛と平和の状態にある」と書かないのは、神さまは「人間」に対しては一方的にご自分の愛と平和を押し付けるようなやり方はされず、人間も神に向って手を差し出す必要があるからです。「天の国は近づいた」という表現自体は、イエスさまが来て下さっても「天の国」がまだ、私たちの手元にはなく離れていることを意味しています。近くだが、私たちも手を伸ばす必要がある;自助努力も求められていることを。

 自助努力は、私たちと神さまとの出会いでは、常に求められます。神は人間を神に似たものとして作られので、人間に善に向かうことも善から離れることもできる自由意思を与えられました。人間は理性の判断をもとに自由に自分の道を決めることができるし、イエスさまは天の国が手の届くところにあることを今も我々に教えて下さっています。しかし、天の国に入るためには、私たちが天の国に向けて手を出し、歩み始めることが必要で、停まったままで居たり、違う方向に手を出してしまっては見つからないでしょう。正しい方向に進むためには、何より「神さまに訊く」こと、それも一度だけでなく、歩み続けながら訊き続けることが必要で大切なのでしょう。聖人方の話しを読むと、訊き続けるときには神さまは必ず答えて下さるようです。このことを信じることができるかどうかが、強い信仰に至れるかどうかの分かれ目となってくるでしょう。

 第二朗読では、パウロは私たちが罪人の時に、父なる神はキリストを送り、私たちのために死んで下さったと指摘します。神に立ち返ろうとする時、義人である必要はない;洗礼の恵みに与った我々は、キリストの血により義とされると。第一朗読では、神は今の私たちに対しても、「あなたたちは私にとって聖なる国民となる」と宣告して下さる、神さまが私を変えられると。長くなり過ぎたので、これらについては、また、別の折りに一緒に考えたいと思います。神さまを誇りとし、賛美し、神に向って歩もうと切に願っています。

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