ウィークリー・メッセージ 201635

 

23主日 ルカ14,25〜33

 

 新居浜教会担当司祭 フェルナンド・マヨラル  

 

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、私の弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついてくる者でなければ、だれであれ、私の弟子ではありえない。」 

 イエス様が言われたこのような言葉が、どのように私たちの心の中に響いているでしょうか、この言葉は私たちには厳しい言葉ではないでしょうか。そう考えている方もいると思います。多分この言葉は私たちを安心させるよりも、不安に感じさせるのではないでしょうか。


 イエス様の歩いて来られた道をよく見ると、私たちはその中に素晴らしい生き方を見いだすことができます。イエス様は謙遜な道を歩まれました。毎日の生活の中で、柔和で謙遜な人として模範を示されました。イエス様は、神の身分でありながら、ご自身を無にしてへりくだり、十字架の上で死に至るまでへりくだりました。イエス様は天国からこの世界に来られたのは、奉仕するためでした。そしてイエス様が捧げた自らの命は、私たち、そして全世界の人々の毎日の生活を照らすすばらしい光になっています。


 現在、恵まれた社会にすんでいる私たちが謙遜な道を歩むことは簡単ではありません。時々自分の利己的な思い、自己中心的な思いを乗り越えなければなりません。私たちが人間として素朴で質素な生活の道を歩んでいくために、神様から力をいただく必要があります。私たちは世界のいろいろな偉大なこと、栄光の力に目を向けるよりも、イエス様の生き方に目を向ける方がいいのではないでしょうか。つまり、イエス様が人々のために限りなく仕え、十字架の死に至るまで自分の命を捧げられた生き方です。もし生活をしていく中で、私たちの心が物質主義や快楽主義に少しでもとらわれているなら、その状態を乗り越えるためには、イエス様が見せてくださった温かさや思いやりの心の模範を思い起こすことが、私たちの力になると思います。

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