ウィークリー・メッセージ 201636

 

年間24主日 C年 2016.09.11

 

 中島町教会担当司祭 イルダラヤージ・アントニサミー  

 

 さま、いつくしみの特別聖年にいる私たち一人ひとりは本当に神の愛、憐れみを豊かにいただいていると思います。神に感謝しなから皆さまと分かち合いたいと思います。

 放蕩息子の喩え話に出てくる父親は、神様の代わりです。息子が帰ってくるまで父親は外で待っています。悔い改めて帰ってきた息子と、それを喜んで迎え入れた家族は再びまた一つになりました。そこで、父親は家を出て腹を立てているもう一人の息子をすぐに探しに行きました。「どうして家に入らないのか?」怒っている息子の理由を聞いてこう言いました。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ』。神様が探しているのは、罪に落ちて暗いところにいたり、怒っている人々だと思います。そして、見つけたとき私たちに言うのは『私のものは全部お前のものだ』

 パウロは、傲慢でキリスト教の人たちを迫害していました。なぜなら、真実の神の姿を知らなかったからです。でも、神様は彼を追いかけました。慈悲による信仰と愛を、溢れるほど与えられました。神様が探しているのは、冒瀆する者、迫害する者、暴力をふるう者です。追いかけるのは罰するためではなく慈悲で赦すためです。

 イエスがこの世に生きていた時代、羊飼いは罪びとだと言われていました。それは羊に草を食べさせるために他の人の土地に入るからです。また、当時の女性は男性より低い者とみなされていました。イエスは、この二人を神様の代わりにしました。見失った羊の喩えと失くした銀貨の喩えです。
 神様が探しているのは世界の隅にいる人々、低く見られている人々です。そういう人たちに対して神様は言います。『あなたたちは、特別、大切、一番価値ある人々です』

 エジプトから導いてこられたイスラエル人は、神様を忘れて若い雄牛の偶像を作り、それにひれ伏して生贄を捧げました。神様はこれを見て怒りました。でも、モーセのことを聞いて慈悲をもって赦します。シナイ山での約束を思い出し、イスラエル人が帰ってくるのを待っていました。神様が探しているのは自分から離れている人々です。

 イエスは徴税人や罪びとたちと一緒に食事をしています。どうしてかといえば、食事をするときは誰もが同じレベル、対等だからです。例えば、日本でも会社の人たちが仕事の後、レストランで一緒に食事をします。会社では地位や立場が違っても、食事の席では誰もが同じ、地位も立場も関係ありません。イエスも同じように、世界の隅で生きている人たち、徴税人や罪びとを大事にするために一緒に食事をしました。神様が探しているのはそんな人たちです。『悔い改める一人の罪びとについては、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある』そうです、神様は、自分から離れて戻ってくる教会の皆さんのためにパーティーをします。私たちも週末にはミサに参加するために教会に来ます。
 ミサはイエス様のパーティーです。私たちの立場はそれぞれですが、イエス様のパーティーではみんな同じ、対等(たいとう)です。誰(だれ)もが神様の子供です。いつも神様と一緒にいることが大事です。罪に落ち、いろいろな理由で離れてしまっても、神様は私たちを探します。戻ってくるまでずっと待っていてくれます。神の恵みで神の愛を実現することが出来るように祈りましょう。

 

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