ウィークリー・メッセージ 20203

 

「主の洗礼


 

  高松教区事務局次長  小山 一助祭  

日は「主の洗礼」の祝日だが、イエスさまはなぜ洗礼を受けられたのだろう?私は不思議でしかたない。

イエスさまが宣教に向けた生き方(公生活)を始められる時、一番最初になさったのが、洗礼者ヨハネのところに来て、彼から洗礼を受けられることだった。

ヨハネは人々に悔い改めを呼び掛け、悔い改めて新たな人生を始めようとした人たちにヨルダン川で洗礼を授けていた。

カトリック要理には「洗礼とは、人が神の子として新たに生まれる秘跡であり、イエス・キリストの定めで洗礼は救いを得るのに必要である。イエスさまが、人の罪をゆるし成聖の恩恵を与えるために洗礼の秘跡を定められた。」とある。

罪を犯したこともなく神さまとの親しい交わりを保って居られ、おそらく私生活の間も周囲の人々に御父の慈しみと愛とを示しておられたイエスさまにとって、なぜ、洗礼を受けることが必要だったのだろう?すべての福音書に書かれ、ヨハネが書簡(1ヨハネ57-8)の中で「証しをするのは霊と水と血」とわざわざ「水」を入れるほどだから、使徒たちにとっては「主の洗礼」という事実が信仰にとって極めて重要な意味を持つ出来ごとだったに違いない。

それが分からないということは私の信仰理解がまだ未熟であることを示している。洗礼には私の理解以上の意味があるのだろう。

初代教会を生きた人たちにとっては自明のことを自分が理解できていないというのはちょっと辛いが、半面、学ぶ意欲をかき立てる。

自分の身近に分からないこと・知らないことがあると気付かされるのはそう悪いことでない;この点は基礎医学の研究でも同じで、疑問をもつことが新発見の糸口であった。

ありがたいことに、イエスさまは学ぼうとする人にはよく我慢して付き合って下さる。


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