ウィークリー・メッセージ 20196

 

「おが屑と丸太


 

  ブラザー 八木 信彦  

「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。」

上記のルカ641-42節を深く味わってみると、以下のように言われている気がしました。

「あなたは、なぜ他者(ひと)の弱さ小ささを正そうとするのか。その正そうとする自分の弱さ小ささにまず気付きなさい。御父がそのあなたの弱さ小ささを、どれほどありのままに無条件で受け容れてくださっているか、それを感じなさい。そうすれば、御父の一人一人への無限大のいつくしみに気付き、他者(ひと)の弱さ小ささは、もはや正すべきものではなく、あなたにとってお恵み賜物に変えられるだろう。」

一生懸命、他者(ひと)の欠点や短所を裁かないように、責めないように、ゆるせるように努力してきたつもりでした。ただ、そう努力すればするほど、より裁き、責め、許せない自分に気付き始めていました。

そんな弱さを持っている私を、神さまがいつくしみ、おおらかさを持って包んでくださっていることを感じるとき、他者(ひと)に対しても同じようにしてみよう…という気持ちが内面から湧き出てくるような気がするのです。

「自分の目の中にある丸太を見る・気付く」とは、自分の欠点や短所を見たり気付いたりすることでしょうけれども、それにもまして、それらを神さまがあたたかく受け容れてくださっている、ゆるしてくださっていることを見、気付くことではないでしょうか。

それが他者(ひと)を受け容れる・ゆるす原動力となるのであって、決して自分の努力やがんばりによるものではないような気がするのです。


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