ウィークリー・メッセージ 20194

 

年間第4主日「特別扱いされたかった(?)


 

  小豆島教会担当司祭 岩ア 武神父  

日の福音は先週の続きです。

故郷のナザレに戻って、会堂で渡された聖書の言葉(イザヤの預言)を宣言された時、そのイエスの言葉を聞いていた人々の態度から、こういうことを考えているのかなと思ってしまいました。

当然、ナザレの人々もいろいろな所(カファルナウム等)での奇跡の噂を聞いていたでしょう。だから、「ここナザレはお前の故郷だし、当然、我々にも同じように、いや、むしろ他の所以上に素晴らしい奇跡をして見せろ!」、みたいな感じでしょうか。

別にイエスは有名になって、故郷に錦を飾ろうと思って戻ったのでも、会堂に入って話したのでもないでしょう。いつもと同じように、ここナザレでも福音を宣べ伝えようとされた。そこが生まれ故郷かどうかは関係無く。

ところが、ナザレの人々はそうじゃなかった。イエスもそれがわかったから、あのような、かなりきつくあてつけて話された。あれでは、彼らが激怒するのも無理ないでしょう。

しかし、本当にイエスは、彼らの態度、言葉が気に入らなくて、あてつけて話したのでしょうか。昔、ヨハネの福音の授業で、イエスが神殿から動物等を追い出している場面について、教授が言われたことを思い出します。

その時のイエスは怒ってそれをしたのだろうかと。そうではなくて、普通に邪魔な物を退けるようにしていただけだと。ここでも、ナザレの人々の態度に腹を立てた訳ではなく、又あてつける為にあのように話したのでもないのではないでしょうか。

イエスが語られた旧約聖書の出来事、つまり、預言者エリヤとサレプタのやもめ(列王記上17章)、預言者エリシャとアラムの王の軍司令官ナアマン(列王記下5章)を読むと、この2人は最初からそれぞれの預言者から頼まれたこと、命じられたことを聞こうとしたのではありません。

やもめは、エリヤの頼みに絶対不可能だと言わんばかりに答えます。ナアマンに至っては、エリシャの命じたことに憤慨してしまいます。しかし、最終的に2人とも聞き従った結果、神を知り、信じるようになります。

神は、イスラエル人だけの神でも、ナザレの神でもありません。すべての人の神です。すべての人を救いたい。その為にイエスは来られました。イエスは、彼らを狭い価値観、先入観、偏見、こだわりなどから解放して、神の救いの地平の大きな広がりに気付いて欲しいだけだったのかもしれません。

その救いを果たす為に、イエスがそこにいる。しかし、ナザレの人々は、目の前にいる彼を認めることが出来ない。救い主が来ることをあれだけ待望していただろうに…

しかし、人々のかたくなさも、不信仰も、無理解、怒りもイエスを消し去ることはできません。むしろ、それらをすべて引き受けて、十字架に上られます。そして復活されます。

「イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」ように、今もその救いの歩みは止まらないのです。


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