ウィークリー・メッセージ 201810

 

神のいつくしみの主日」


 

  桜町教会担当司祭 松浦 信行    

 この春、復活祭が終わってからすぐに、以前の赴任地大阪でお世話になったご婦人たちが23日で6人、高松に陣中訪問に来てくださいました。どこにお連れしたらよいか、6人の人それぞれに聞きましたら聞きました。

金比羅さんに入ったことがある、かずら橋に行ったことがある、栗林公園に入ったことがある、屋島に行ったことがあると、それぞれ有名なところは何人かはすでに訪れているようでした。

それで一考、高松付近のあまり人が行ったことも無い、それでいて四国らしいものが見えるマイナーな観光地巡りをしてみようということになりました。土柱、脇町のうだつの町並み、小便小僧、琴引公園の銭形砂絵、父母が浜、紫雲出山、旧善通寺偕行社、などなど。マイナーな場所を巡ることで四国の町並みや風景を堪能して欲しいとの心です。そして帰りには、津田の松原とびんび屋の定食で、6人とも大満足して帰りました。

百聞は一見に如かず、とのことわざの通り、いろいろと現地を回ることで、四国の味わいが広がっていったと思います。それぞれの人の感性と思惑を活かしながら、それぞれにあった形でオリジナルな旅程を作り出すこと、皆がにこにこ顔で帰って行ったその姿を見いだしてよかったと思う次第です。

今日の聖書もそのように読み取れると思います。イエス様はトマスの性格をどの様にとらえていたのでしょうか?現実主義者で客観主義者、証拠が無いと何も無いかの態度、でももっと大事なことは、トマスがどの様な態度であれイエス様はトマスに本当の弟子になって欲しいと願っていた態度です。

だから、イエス様の本音は「見ないのに信じるものは幸いである」との言葉より、「信じないものではなく、信じるものになりなさい」の方が重きを置いているようなのです。

トマスが、そのような性格を持っているなら、トマスに合わせた仕方でトマスを本当の弟子にする。イエス様を見ることができないが見ないのに信じることができる人には、そのような確信を与えていく。

パウロの言葉、「私は誰に対しても自由なものですが、すべての人の奴隷になりました」の言葉が、その源であるイエス様から響き渡っていると感じるのです。

復活の出来事は、私たちの神の表れをも指し示しているようです。


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