ウィークリー・メッセージ 201614

 

「復活と聖ドミニコの祈り」

 

 聖マルチン病院 司祭 井原 彰一  

 主の御復活おめでとうございます。弟子たちが墓場に行っても主の遺体は見つからなかった。

この出来事は主が弟子たちに生前預言されていた事でありますが、その意味するところは「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。」(コリント前:15;53)というものでした。
ところで、「復活」は言語的にどのような意味を持っているのでしょうか。復活は英語で『the Resurrection』と言われますが、この言葉はRe+sur+rect+ionから成り立っています。「Re」は再びとか新しくという意味を持った接頭辞です。「sur」は上にとか表面にといった意味があります。「rect」はrectangular(直角の)、rectitude(正直・公正)等に見られるように「真っ直ぐな」という意味があります。「ion」は名詞を作るときの接尾辞です。これらの言葉の意味を考えてResurrection(復活)を直訳すると「再び上に真っ直ぐに立つこと」《上方再直立》と言えるでしょう。これはどんな意味を示しているのでしょうか?

人祖アダムとエバが禁じられた木の実を食べることによって原罪の罪が入り、人間はそれまでエデンの園で立って至福を享受していた状態から罪の暗闇の中に倒れました。父なる神の人類を救済しようとする摂理によってキリストが遣わされ、十字架の刑に処せられた後黄泉に下って復活したことにより、人類は原罪・自罪から浄められ再び上に向かって立つことができるようになったのです。

 聖ドミニコはこのことを深く瞑想し、祈るときにただ座ったまま心を神に向けるのではなく、自分の体を使ってキリストの復活の秘儀を祈っていたのです。彼はどのように祈ったのでしょうか。先ず「謙遜な祈り」です。祭壇の前で恭しく身をかがめてキリストの前に謙虚に頭を下げ、崇拝を示しながら自分の全てを捧げます。

次は「罪人としての祈り」です。地面にひれ伏して顔をつけ、心に痛悔をおこしながら詩編の「私の魂はちりにまみれています」という言葉を唱えながら自分の罪深さ、自分の力では立つことのできない闇や惨めさを想ったのです。次は「償いの祈り」です。今度は罪人として全く地面にひれ伏していた状態から少し立ち上がって、詩編の言葉「神よ、慈悲によって私を憐み、深い憐憫れんびんによって、私のとがを消したまえ。」(詩編51)「主よ、あなたが罪に御目をとめられたら、主よ、誰がそれに耐えられよう。だが、あなたには赦しがある。」(詩編130)を唱えます。そして断食や節制の償いをするのです。次は「清めの祈り」です。今度は更に立って、祭壇の前で十字架に眼差しを向け、二度、三度、更に百回もひざまずいて「主よ、お望みならば私を清くすることができます。」と唱えながら罪が赦される喜びを深く味わうのです。その次は「神に披かれる祈り」です。今度は祭壇の前で直立不動の姿勢で立ち、両手を胸の前で広げます。そして神の前でキリストの復活の姿を想いながら、立っていられることに心からの感謝と尊敬と信心を込めて、神の御言葉の深い観想にひたるのでした。私たちも祭壇の前で直立不動の姿勢でキリストの復活の姿を想いながら再び立てる喜びを感謝しましょう。

ドミニコ会 井原彰一

 

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