ウィークリー・メッセージ 201613

 

「神は沈黙を通して語る ―受難物語におけるイエスの沈黙について―」

 

 宇和島教会担当司祭 田中正史  

 「沈黙は金」という言葉があります。雄弁に語ることは大切ですが沈黙すべき時をわきまえていることはもっと大切であるという意味です。たとえ語ることがあっても、意図して沈黙を貫いているとすれば、その沈黙には言葉を超えた言葉があるのでしょう。そのとき沈黙は雄弁よりもさらに真実を雄弁に語っています。


 愛する者は、相手が語る言葉よりも、むしろ沈黙の中により多くのことを聞き取ることができます。自分の苦労や苦しみや悲しみについて語らなくてもそれが相手に理解されているときに本当に心が通じていることを実感するものです。


 沈黙の中の言葉を聞き取るためには、こちらもまた沈黙しなければなりません。最も深いところにある言葉は静寂の中にあってもさらに耳を澄まさなければならないほど微(かす)かに響いています。

 旧約聖書の中で沈黙は神の言葉を聴くために必要なこととして語られています。たとえば、神への信頼を主題にしている詩編62の冒頭には「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう。神に私の救いはある。・・・・・・私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、私は希望をおいている」(2、6節)と語られていて、詩人が沈黙のうちに神を待っていたときに語られた神の言葉によって結ばれています。「ひとつのことを神は語り、ふたつのことを私は聞いた。力は神のものであり、慈(いつく)しみは、私の主よ、あなたのものである、と」(12〜13節)

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 神の言葉は人間の沈黙を通して聞き取らなければならないのであれば、神の言葉は神自身の沈黙から語られる言葉であると言えます。
 イエス・キリストが十字架に架けられる前にピラトの尋問を受けた時、ユダヤの指導者たちである祭司長や長老たちはイエスを有罪にしようとして彼にとって不利な証言を行います。しかし、「イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った」とマタイとマルコ福音書は語っています。
 ルカ福音書においてローマ総督ピラトは三度も「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と主張しています。彼はイエスの裁判に関して中立的な立場にいて、できるならばイエスを釈放したいと考えていました。ピラトは「あのようにお前に不利な証言をしているのに、聞こえないのか」とイエスに迫りますが、イエスは「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかった」と聖書は証言しています。

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 イエスの沈黙は十字架上の死に際しての神の沈黙と呼応して私たちに神の言葉を語っています。そこには三つの積極的な意義があります。

 一つは、敵をも愛の中に包み込もうとするイエスの覚悟であり、すべてのことを、たとえいかなる悪であり、どんなに不条理に満ちていようともありのままに受け止めるという意志的愛が示されています。イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と十字架の上でおん父に赦しを希(こいねが)います。自らに悪をなす者の悪意の根本の無知を彼らの心の中にイエスは聞き取っています。

 二つ目は、イエスは社会の中でもっとも弱い人、もっとも小さくされている人の痛み、苦しみを自分自身のことのように痛み、その苦しみに深く共感し、彼自身がもっとも弱い人と同じ立場に立ち、苦しみを声にすることも言葉にすることもできない人々のところまで自ら下っていくことで、彼らの痛みと苦しみを全面的に受容し、彼らの沈黙の苦しみを傾聴しています。

 三つ目は、これがもっとも積極的な意味をもつものですが、人間的に見てどのように希望がない状態であったとしても、おん父はイエスとともにあり、イエスをおん父の愛から切り離すものではないことがイエスの沈黙の中に私たちに見えるかたちで示されています。この沈黙はイエスにとっては天のおん父への全面的な信頼であり、また天のおん父にとっては神の子イエスを通してすべての人間に愛と許しを与えています。それが十字架という神の沈黙を通して私たちに語られている神の言葉なのです。

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 受難の主日に読まれるイエス・キリストの受難物語はピラトによる尋問から始まりますが、本来の受難物語は、過越祭の間際(まぎわ)に祭司長や律法学者たちがイエスを殺す計略を立てるところから始まっていて、そのあと最後の晩餐やオリーブ山での祈りが続きます。オリーブ山での祈りを最後に、次第に言葉数が少なくなっていくイエスは、自らすすんで神の沈黙の中に入っていくかのようです。
 イエスが十字架に架けられた時に、そこを通りかかった人々はイエスをののしって「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と言います。また、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、「他人は救ったのに、自分は救えない。今すぐ十字架から降りるがいい。神に頼っているが、今すぐ救ってもらえ」とイエスを侮辱して言います。さらには、一緒に十字架に架けられていた犯罪人の一人も「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」とイエスをののしります。
 十字架上のイエスには現象的には何事も起こりませんでした。しかし、この神の沈黙の中に神の言葉を聞いた人が十字架のもとに佇(ただず)んでいた人たちの中にいました。イエスのそばに立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て「本当に、この人は神の子だった」と証言しています。

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  受難物語におけるおん子イエスの沈黙とおん父の沈黙の中に私たちも耳を澄ませて神の言葉を聴き取る必要があるように、おん父もまた私たちの沈黙の中の声を聴き取ってくださいます。イエスは私たちが祈るときにくどくどと述べてはならないと戒めています。なぜなら、「天の父は、願う前から、私たちに必要なものを知っておられるから」(マタイ6・8)です。この言葉は私たちにとって強い心の支えになります。なぜなら、私たちは自分にとって本当に必要なものが何であるのかわからないことが多いからです。それにもかかわらず、天の父が私たちの思いを超えて真に必要なことを私たちがたとえ声にしていなくても聴き取り、私たちの沈黙の中に真実を見出してくださっているとするならばこれほど心強い弁護者はいないからです。

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 現代社会には様々な情報が溢れています。しかし、大切なことは私たちがそれら膨大な情報を取捨選択することが出来る強靱(きょうじん)な知性を磨くことよりも、喧噪(けんそう)に満ちた社会の中にあってそのような喧噪から距離を取り、私たちが真に人間らしい生活を営むことが出来るような沈黙の中に身を浸してみることなのではないでしょうか。一人ひとりの沈黙を通して聴こえる他者の声に耳を澄ませてみることの中には、かならず神の言葉もまた響いていると思います。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」(マタイ18・19〜20)からです。

 

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