ウィークリー・メッセージ 20166

 

「この人はヨセフの子ではないか。」

 

 今治教会担当司祭  山本 一郎

 エス・キリストの活動の始まりは、先ず地元民との軋轢だったのかもしれません。イエスが口にした言葉に反応した人々。戸惑いが読み取れます。素直に聴いた人々がどれだけの割合で居たのか定かではありませんが、少なくとも疑問に感じ、戸惑い、動揺した人達が居たようです。

「この人はヨセフの子ではないか。」身近にイエス少年の成長を見守った人々がそう思うのも、自然な反応だったかもしれません。最初の挫折。受け入れて貰えない寂しさ。孤独感に襲われるイエス・キリスト。一番身近に居て、一番支援してくれる筈の人々に拒絶されて、イエスは何を思った事でしょう。


 受け手の思いに左右される言葉は、時に無力で、時に壁と溝を作ります。その言葉と教えが、自分にとって益か否かによって、価値は左右され、受け入れられるか、拒絶されるか問われます。言葉の価値は、受け手によって篩に掛けられます。そこにイエス・キリストの挫折が生じます。


 作家や創作に従事する人々の苦悩は、作品がどれだけの人々に受け入れられ、賞賛されるかという結果に晒されても、それに立ち向かう意志の強さで克服するしかありません。タフでなければ務まりません。継続して闘って生み出し、結果に惑わされない強さを求められます。一流の人々に共通する才能です。


 福音の宣教を始めたイエスに求められた強さは、状況に流される事なく、継続して伝える強さと、都合良く曲げる事も妥協する事もなく向き合う強さでした。そしてイエス・キリストの教えは、今読み手でもあり、受け手である人々の前に晒され、受け手の受け取り方に託されます。先入観だけでなく、本質を読み取り、教えの中に受け手である自己を何処まで浸透させるかを問われています。「この人はヨセフの子ではないか」という先入観を克服する、教えを読み取る姿勢にこそ、御言葉は価値をもたらす訳です。本質を受け止める姿勢を整えてこそ御言葉は、受け手に確かな教えと未来をもたらすのではないのでしょうか。受け手にこそ問われる姿勢を意識して御言葉と向き合いたいものです。条件が整う時、確かな教えに辿り着き有難い教えに出会えるのかもしれません。

 

<八木ブラザーの記事「貧しい人々に福音を」に行く フェルナンド神父の記事「漁師を弟子にする (ルカ5章、1−11)」に行く>

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