ウィークリー・メッセージ 201524

 

年間第11主日

 

 赤岡・江ノ口教会担当司祭 クリスティ・パーキアナータン        

 る時、年老いて目の見えない父親とその息子が旅をしていました。旅の初めから父親は周りの情景を一つ一つ息子に尋ねていました。息子は初めのうちは優しく答えていましたが、何度も繰り返し聞かれるうちにだんだん腹が立って来て、「私がちゃんと連れて行くのだから、黙ってついて来なさい。」と父親を叱りつけました。この言葉に傷ついた父親は、涙ぐんでこう答えました。「あなたが小さい時に同じ事を何度も繰り返し聞いた時、私は何十回でもちゃんと優しく答えてあげましたよ。」

 一般的に言えば子供達は、好奇心を持って同じ事について何度も聞く事があります。一つの答えを聞いても、もっと知りたくて次々に質問して来ます。しかし、子供は成長して大人になるにつれて、誰も全ての問題には答える事ができないという事が分かってきます。特に、人生におけるさまざまな問題、例えば、どうしてこのような事が私に起きるのか、どうして私だけが不幸な目に遭うのか、などが疑問としてしょっちゅう頭に浮かんできますが、すぐには答える事ができません。同じくこの福音の中でも、蒔かれた種がどのようにして成長して行くのかは、種を蒔く人にも、わからないと、イエス様がおっしゃっています。


 福音ではイエス様が、二つの例え話を通して、神秘的なもの、つまり神の国について説明なさっています。イエス様が「神の国は次のようなものである。」と教え始められていますが、その神の国についてわかりやすく説明なさるために、種蒔く人について話しておられます。種を蒔く人でさえ、自分の蒔いた種の成長が分からないのなら、人間である私達が、神の国での神の計らいについてどのようにして分かるのでしょう。蒔かれた種が成長して行くのは自然な事であり、神秘的な事です。そうであれば神の国の成長は、それを遥かに超えた神秘的な事です。しかし、種を蒔く前にその人は、土を耕したり、肥料を入れたり、自分でも努力しないといけない事がいろいろあります。種を蒔いた後は自然に成長していきますが、どうしてそうなるのか、それは蒔いた人にはわかりません。それは、神秘的な事、神様の計らいによるものです。同じく私達も、日々の生活の中で自ら努力する必要があります。しかし、どれほど豊かに実を結ぶかは、まかれた種が収穫されるまで自然に成長するのと同じように、神の計らいによるものです。一方、私達自らの努力はどんなに小さくても、つまり、福音の二つめの例え話に書かれている、からし種が小さくてもその種が成長して葉の陰に空の鳥が巣を作るほど大きくなるように、神の計らいにより大きく実を結びます。私達の少しの努力が実り、皆に役立つほど大きくなるのも神の計らいによるものなのです。蒔かれた種が成長して実るまで、蒔いた人は忍耐強く待たなければならないように、私達の努力も相応しい時が来て豊かに実を結ぶまでは辛抱強く待たなければならないとイエス様が教えておられます。


 第一朗読と第二朗読でも、神の計らいは人間である私達の考えを遥かに超えたものであるという事が伝えられています。預言者エゼキエルは神がご自分の計画によってイスラエルの人々に救いを与えることをレバノン杉に例えて、預言しています。同じくパウロは、私達の人生の中に自然に起きる、神様の計らいによって起きる出来事に信仰を持って歩んで行くようにと招いています。ですから、私達も神様の計らいに信頼して神の国で豊かに実を結びましょう。

 

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