ウィークリー・メッセージ 201521

 

ご昇天 聖霊の時代の幕開け

 

 桜町教会担当司祭 村上 耿介       

 エスの昇天について語る聖書の記事は三つあります。マルコとルカ、それに使徒言行録です。ルカと使徒言行録はキリストの昇天を見た者の視点から書かれています。

「イエスは、彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使徒言行録1章.9−11節)

「イエスは、祝福しながら彼らを離れ天に上げられた(ルカ24章50−52節)

マルコは簡潔に「主イエスは天に上げられ、神の右の座に着かれた」(マルコ16章19節)と出来事のみを記します。マタイは、11人の弟子たちが、ガリラヤの山の上でイエスに会ったことを語りますが、ご昇天のことには全く触れていません。「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておいた山に上った。そしてイエスに会い、ひれ伏した」(マタイ28章16-17節)。

「カトリック教会の教え」では、キリストの昇天を高挙と呼んでいます。使徒たちにもっとも近い時代の教会は、イエスの死者からの復活を「神によって高められ、神の右にあげられた」という言い方で表現しました。これは昇天を理解する大事なポイントです。高挙(昇天)と復活は、もともと同一の出来事の二つの表現なのです。復活されたイエスは、墓地でマグダラのマリアに、エマオへの道で二人の弟子に、11人の弟子が食事をしている席にも現れました。これらの出現は、復活によって御父のもとに高められたイエスの天からの出現、御父がキリストにあたえた栄光の座からの出現として理解しましょう(カトリック教会の教え 92〜96頁参照)。なお御父の右におられるという表現は、イエスが御父の栄光と愛のうちにおられることを言っているのです。

 ご昇天は、地上に残る弟子たちにとって、目に見える主との決定的な別れでした。最後の晩餐のときに、イエスの別れの言葉を聞いた弟子たちは、悲しみと恐れにとらわれました。しかし主の昇天を見送った彼らは「イエスを伏し拝んだのち、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神とほめたたえていた」となっています(ルカ24章52〜53節)。別れはいつも淋しいものですが、なぜ彼らは喜んだのでしょう。それは主の堅い約束があったからです。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24章49節)。弟子たちは、この高いところのからの力とは、主が何度も約束された聖霊のことであると理解しました。「私が父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方が私について証しをなさるはずである」(ヨハネ15章26節)

弟子たちは、三年近くイエスと歩んできましたが、その間、湖の嵐のとき、またゲッセマニの園で捕り手に囲まれたとき、律法学者から問い詰められて返答に窮したとき、主がいつも助けてくれたことを覚えていました。ですから主の昇天は、別れの寂しさよりも聖霊に対する期待が、彼らの心を喜びで満たしたのです。エルサレムに戻ったかれらは、マリア様を囲んで、心を合わせてひたすら祈り、聖霊の降るのを待ちました。五旬祭の日、弟子たちは聖霊に満たされ、大いなる確信と喜びをもって、主の復活の証人に変えられていきました。まさに教会の誕生の日です。
 アブラハムを召し出し、モーゼを選び、イスラエルの民を約束の地に導いたのは、主なる神のみわざです。それは「父の時代」です。時が満ち、神の御子が送られて、神の国の到来を告げ知らせ、受難と復活を通して、人類を罪の支配から解放されました。「御子の時代」です。そして聖霊を送られたとき、「聖霊の時代」が始まったのです。いま、私たちは聖霊の時代を生きています。御父と御子の間に交わされる永遠の愛である聖霊が、いま教会を導いておられるのです。ご昇天の祝日に当って、私たちは聖霊の導きに心を開き、愛に生きる道を進みましょう。


 

 

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