ウィークリー・メッセージ 201632

 

空しさ

 

 道後教会担当司祭 川上 栄治  

 

 トリック教会は日曜日のミサで三つの聖書の箇所を朗読します。その中心はイエス・キリストの生涯を記した福音書ですが、第一朗読には旧約聖書というイエスが登場する以前の書物を読みます。とは言いましても、旧約聖書には歴史書、預言書、歌、戒めという幅広いジャンルの書物があり、その全てを日曜日の朗読を聴くだけでは到底知ることができません。


 この日曜日に読まれるのはコヘレトの言葉という書物です。出だしから「空しい」という言葉が繰り返し登場します。これがコヘレトの言葉の全体を貫くテーマです。これはわたしたちにとっても切実なテーマです。なぜなら、わたしたちは誰しも「空しさ」という感情を抱くからです。「空しさ」は物事に失敗した時だけではなく、成功した時にもやってくる気持ちです。その空しさが頂点になるのは「死」の時です。「知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのだろうか」という言葉は、死を目の前にして全てを手放さなければならない、という現実を語っています。


 コヘレトの言葉の著者はあらゆることを「空しい」と切り捨てます。快楽、知恵、不正な人が富を得、正しい人が貧しさの中で死ぬ不条理など。それらすべてのことを見極めた上で、著者は次の言葉を結論とします。
『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ人間のすべて」(コヘレトの言葉12・13)。これを聞くと「聖書の言葉だから、結局神を出してくるのか」と思われる人もいるでしょう。
 そこで次の言葉を引用したいと思います。

「神は、誰もの心の中に、富みによってもたらされた幻想ではなく、愛を感じさせるための『感覚』というものを与えてくださった。私が勝ち得た富は、私が死ぬ時に一緒に持っていけるものではない。私があの世に持っていける物は、愛情にあふれた(ポジティブな)思い出だけだ。これこそが本当の豊かさであり、あなたとずっと一緒にいてくれるもの、あなたに力をあたえてくれるもの、あなたの道を照らしてくれるものだ。」


 これはApple創業者のCEOだったスティーブン・ジョブズが亡くなる前に残した言葉です。そして、ジョブズに限らず、死の間際で人生で積み上げた富を「空しい」と語った人はたくさんいます。そこで感じるのは「神」なのです。ジョブズは熱心な仏教徒でしたが、ジョブズに限らず、死を前にしてそれまで信仰に見向きもしなかった人がどんな信仰者よりも立派に生きたという話をわたしたちは見聞きすることでしょう。
 ジョブズが「愛情にあふれた思い出」と名付けたものは、コヘレトの言葉の「神を畏れ、その戒めを守れ」という結論に重なります。「戒め」と聞くと「厳しい」ものと思いがちですが、そうではありません。なぜなら、この戒めはイエス・キリストによって、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書15・12)という言葉に集約されたからです。富や名声だけを追い求めるのではなく、神の愛を受けとめながら日々の生活を送れば、わたしたちは「死ぬ前」ではなく「今」を豊かに生きることができるのです。
 そうだとしても、わたしたちは「空しさ」という感情を味わう時は必ずあります。それは神を信じていても変わりません。けれども、キリスト教は神がイエス・キリストを通してわたしたちを愛してくださっていると信じます。それは、イエス・キリストが十字架で死んで復活されたという出来事によって示されました。だから、キリスト者は「死が終わりではない」と信じるのです。この信仰が「空しさ」を乗り越えて生きる力となるのです。


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