ウィークリー・メッセージ 20151

神の母 聖マリア

 高松教区司教 諏訪 榮治郎

 年明けましておめでとうございます。

 今年はどんな年になるのでしょう。誰もが「平安」を願って手を合わせます。

 しかし私たちを取り巻く世界は、国土の覇権争いによって対立構造が激化しています。アメリカとロシアの再冷戦。勢力を拡大したい中国の領有権問題。残酷なテロ集団の蜂起。世界を股に掛けた経済優先政策は自国の利益のため秩序を崩させながらマーケットを広げています。それらは膨大な社会格差を生じさせ、人間の尊厳を踏みにじる混沌とした世界を生み出しています。これに加えて世界各地で起こる自然災害。まさに『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり・・』(創世記1章2節)の状況です。


 いったい私たちの住んでいるこの世界はどうなるのだろう。次に生まれてくる子どもたちが喜んで生きてくれるだろうか?誰しもが本当に憂う社会になってしまいました。
 そんななか、思い出したいことがあります。旧約聖書の編纂へんさんの時代です。BC6世紀、イスラエル民族にとって壊滅的なバビロン捕囚というとてつもない喪失体験の中、聖書が編纂されたのです。混沌とした掴みようのない虚しさと荒廃のなか、またどこに向かうのか方向さえ見えない闇と、底なしの不安である深淵の体験を語るのです。『地は混沌であって、闇が深淵の面にあり・・』(創世記1章2節)と。
 しかし、聖書は続いて語ります。『神は言われた。光あれ。こうして光があった。』(3節)「神は言われた」とは神の言葉 神の思いがこの世を貫ぬくことを確信し、「光あれ」は創造の喜びと愛が流れでる・・その世界の回復を語るのです。世は光を受け入れなければ、滅びてしまう危機状態にあるのです。

 私たちは何もしないで好転を待つ「楽観主義者」ではありません。神のみ手にあることの信頼の中で今日を大切に答えて生きる「希望」の人です。神の思いが、計画がこの社会に夙川のごとく流れるために、「祈り」の人となるのです。マリア様の生涯は透明であったでしょう。それは「み旨」が行われるための道筋である透明な「祈り」からでした。


人(肉)の思いをこえて、「み旨」が行われるために、神の母マリアと共に、日々「祈り」の人として世界に「光」の道を備えたいと思います。祈りからあふれる「日々の糧」をもって互いの「人間の尊厳」
を支え合うことを、「新しい年の初め」に願いました。


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