2011.5.21〜5.30 |
5月21日(土) 「憲法20条、政教分離を考える」シンポジウムが小倉で開かれた。私は「日本の教会史より憲法20条を考える」ということで問題提起を行った。 豊徳時代には神道、仏教、儒教を日本文化と同一視し、これらの宗教を土台とする日本の国是という論理に対して、一神教を教是とするキリスト教が衝突するのは必至である、という論旨で話し始めた。ついで、天皇を頂点とする明治より昭和に到る国是と、それに屈服しなければならなかったキリスト教の苦悩について語った。天皇制については多くの質問があった。人間宣言をし、日本国民の善のために奉仕する天皇制に異論はない。神格化され、政教一致のシンボル、または実権を握る天皇制については異論をはさむより他に方法はない。 夕方、北九州の旧友が私の慰労会を開いてくださる。感謝!日本教会のために何ができたかと自問している。 |
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5月22日(日) 小倉教会でミサをたてた。中高生の男子がまとまって侍者をした後、コーヒーを飲んでいた。声をかけて少しの間雑談をする。教会に対して、若者らしい要望を持っている。 今回の大震災は、教会のあるべき姿を模索するよう示唆している。本当に社会に開かれた教会とは何かということである。「下化衆生」と道元は言うが、「下化」とは人のくらいにまで自らを下げて、「衆生」、人々の中に飛び込むことを意味している。「裃をこれで脱ぎなさい」とある人が退任にあたり私に手紙をくれた。裃をつけているつもりはなかったけれど、そのように映ったのだろう。 |
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5月23日(月) カトリック神学院で授業。一日4時間の集中講義。サビエルが来日して30年、日本教会はトレント公会議後の教会刷新の時期となっていた。最大の問題は宣教の指針であり、洗礼の基準をどこにおくのかということにあった。容易に授洗するのか、信仰を深めてから授洗するのかということである。更に、司祭のあり方を問うものでもあった。共同で働く必要性が強調され、個人プレイのカリスマ的宣教より、一つの方針のもとに同じ方向に働くということであった。それらのいずれも、現代の日本教会にもあてはめて考えることができる。 |
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5月25日(水)〜27日(金) 道後教会中心の巡礼に参加した。道後教会の主任司祭であったピエトロ・パウロ・ナバロ神父の生涯を追う巡礼だ。道後教会に始まり、八幡浜より大分へ。コンフラリア(組)の組織を大分地方で固めたのは同神父であった。 「サンタマリアの組」の掟が文書として残っている。この島原半島への旅は、ナバロ神父の組(くみ)組織、言いかえれば信徒評議会組織をたどる旅と言ってもよい。これは、第二バチカン公会議以降の、信徒を中心とする教会のあり方を示唆している。保守化して聖職者中心の教会に逆戻りする教会に対しての、大きな警告となっている。大分より竹田へ、更に島原の今村処刑塚へ。62才の生涯を火刑で終えたナバロの生涯であった。 参加者28名、島原には大分の被選司教浜口師も参加してミサを司式した。愛媛の信者さん達と一緒に旅をしたのはよかった。丸尾さんの歴史の説明は、その素朴な人柄と相まって皆の心に深く入った。 |
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5月29日(土) 高知は台風 ――。雨の中で多くの信者さんが歓迎してくださった。教区大会に向けての養成コースがあり、話し合いは盛り上がった。新しい生活が私にとっても始まる。できることをできるところから始めてみよう。どちらにしても、台風の中で家に閉じこもるしかない。MISIAの歌を聴いている。静かな一時 ――。雨と風がこの一軒家に音をたてて吹きつけている。 |
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5月30日(日) 一日江ノ口教会で仕事をした。東京教区の司祭の黙想会を引き受けているので、マルコの福音書のまとめを始めた。四分の一位をパソコンに打ち込んだ。久しぶりの頭を使う仕事で疲れた。二階には終日風が吹き抜けて涼しい。江ノ口教会の聖堂はきれいだ。和風で祈る雰囲気が漂っている。Sさんが偶々オルガンを弾いていて心地よい。朝の黙想となった。
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