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司教館の窓から
2011.5.5〜5.13

5月5(木) 大浦天主堂のクリスマス
 私は2000年8月まで長崎の大浦天主堂内に暮らしていました。四季折々の美しさがある大浦ですが、私にとって一番の想い出は、大浦天主堂内でのクリスマスのミサです。イヴの9時、階段下からローソクの行列が始まります。そしてクリスマス・キャロルにあわせて、ローソクの炎が揺らめきます。子供がそそうしてローソクをたらすことがあったりしても、決してその雰囲気は乱されません。そして、天主堂に入ると、馬小屋のイエス様に皆で挨拶します。ローソクの光は天主堂の天井や壁に、その影を投げかけます。ステンドグラスの色彩と輝き、手垢で光っている柱など、一際その輝きを増します。天主堂が人で一杯になる時に、私は大きく息を吸ってミサを始めます。祭壇の上からその光景を見るのが最大の楽しみでした。
 百年前、長崎の信者たちはこの天主堂を訪れ、涙を流して神父達との再会を喜んだことでしょう。その子孫たちがここに居ること、そして同じようにこの祭壇の前に跪づいていること、これを考えるだけで私の心は弾みました。いや、その中にこの人達の先祖を迫害した者の子孫かもしれない私が入れて貰っていることは、言い表せない喜びでした。六十も越えた私が、自分が涙ぐんでいるのに気づきました。あの天主堂は百年の歴史を生きて、人々の涙や感激を見続けてきました。人々の想いは"気"となって天主堂に満ち満ちているのです。多分百年ではなく四百年間のキリシタンたちの想いが満ち満ちているのかも知れません。"気"は人を癒すと言われます。きっと現代のストレスに悩む人々を癒し続ける仕事を、あの天主堂はしているのかもしれません。天主堂一杯に満ちた"気"はここを訪れる人を癒し続けていると考えた時、私がしている説教などほんのつまらない、どうでも良いことのように思えてならなかったのです。
 今は天主堂でミサをたてることはありません。一抹の寂しさを覚えます。高松の司教座聖堂でミサをたてるのも終りました。願わくは、司教座聖堂が信者の"気"に満ちた場となることを期待しています。そのためには聖堂に祈る人が必要だということです。教会が四国の人々のオアシスとなりますように ―― 。
5月6日(金)
 今治教会に寄ると、会長さんのお家で信者さん達と昼食会をしているという。案内されて馳走にあずかった。沢山の新鮮な山菜があり、美味しかった。この7年間多々助けて頂いたことを感謝した。
5月7日(土)〜8日(日) 子ども&中高生の集い
 高知芸西村で子ども&中高生の集い。青年スタッフと合わせて80名が集まった。諏訪被選司教のゲームに始まり、東京から来た佐藤神父のゲームでしめくくった。最後は私の司教ミサ――。説教はカテケージス方式で子供たちが質問しながら「教会」という考えをまとめていくことができた。子供たちからこの7年間のことで感謝のことばを受けた。全ては終わって行く。新しい時代の始まりである。太平洋に飛び込み、びしょぬれになって遊ぶ子供たちを見ると心が和む。この子たちが次の時代をつくっていくのだろう。
5月9日(月)
 東京カトリック神学院で終日授業。初期宣教時代を終了した。今年は授業のペースがよい。授業後すぐ仙台へ――。S.Aが迎えに来てくれていて遅い夕食を馳走になった。すぐに地震の時の話となる。はや被災地にきた印象あり。
5月10日(火)
 午前中平賀司教を表敬訪問する。司祭評議会が開かれていたが、集合した司祭が少なかった。交通の事情で動けないのであろう。高松教区よりの義援金を手渡す。更にプリウスを持参してきたことも報告する。仙台の信者さん数名に会う。一様に懐かしがって下さった。久し振りの面会がこんな形であるとは――。リュックをかついでスニーカー姿の私に最初気がつかなかったようである。午後列車で盛岡へ。そしてそこからW氏の運転で遠野教会へ向かった。85才になるエンデルレ神父は、今が引き時と考え、この4月に母国のスイスに帰る予定だった。ところがこの災害が起り、信者をおいて自分だけが帰国などできないと訴えていた。浜口被選司教、ソン、高山両神学生と高田君(愛媛大学)と遠野で合流する。さっそくカップヌードルの夕食をとる。多田乙彦さんがプリンやヨーグルトなどを持参して歓迎してくれた。早めに就寝。
5月11日(水)
 夜中二度余震があった。やはり不気味だ。朝ミサをたてて、釜石に向かう。エンデルレ神父も同道。センター長は釜石教会会長の小野寺氏。伊勢さんという女性が全部を仕切っている。皆ボランティアだ。男女20名が教会に起居し、朝仕事を貰って出かけるシステムである。朝のミーティングで仕事の分担が決まり、夜はふり返りで終わる日課となっている。食堂の廊下に各々が持参した食料を並べて、各自その中から自分でとって食べる。夜は米だけは炊いてあって、おかずは各自思い思いに作っている。隣のホールに届けられた品物が整理されていて、人々が訪れては必要なものを持って帰るようになっている。こうして極度に人が少なかった釜石教会は人で賑わっている。若い人が久しぶりに出入りしている。また町の人々にこうして開かれた教会になっている。またボランティアの交流は教会を大きく人々に開かせる結果となった。今は教会が町に開かれるチャンスなのだ。
5月12日(木)
 釜石の状況は陸前高田や大船渡に比べると断然よい。がれきも大方片づいているし、車も多くは警察署前の広場に集められている。もう大工さんや職人が入って家の改築をしていたのも印象的だ。案内してくれたC女史は学童保育で働いていたが、津波の時は丁度下校の頃で学童は居なかったそうだ。隣の保育園で保母さんたちが二人を背中に背負い、10人くらいの子供を連れて高いところに登っていくのを見て、すぐそちらに走って子供を助けたという話を淡々としていた。後一瞬遅れていたら駄目だったという。保育園も学童保育所も全部流されて、何も残らなかった。ちなみに彼女の車も流されたままだという。
 それに比べて、陸前高田の状態は全く声も出ないくらい悲惨である。何もない。町全体が完全に呑み込まれていて、平野一帯が田圃になっているという感じだ。上から見下ろし、さらに車で海岸まで行き惨状を確かめる。今日水道が回復したということで、放送車が取材に来ていた。仮庁舎に給食センターと給水センターが設けられていた。そばでプレハブの郵便局が営業している。海岸沿いに戻れるだろうか。
5月13日(金)
 大船渡教会は高台にあるが、その中腹まで波が襲ったという。下園のため園児を乗せたバスは、波が来るのを見てバックで高台に上がり、皆救かったという。教会の下はがれきの山だ。こういう中から園児の黄色い声が朗らかに響いている。不思議な感傷・・・。会津神父と会う。複数の教会を担当しているので、交通の便の悪さに参っていると言っていた。仙台教区には今司祭が必要だ。高松は恵まれすぎているくらいだ。欲しいものは何かと言うと、今から暑くなるので下着類だと言う。仮設住宅ができる時のためには、ガスコンロが欲しいとも言っていた。愛媛の県道で買ったみかんを送ったのをとても喜んでくれていた。司教館にあるガスコンロを送ることにしよう。下着類は募集することにしたい。

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