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4月23日(土)
神学生達は聖週間の典礼の儀式の準備をしっかりやってくれた。おかげで、今年はとてもすばらしい式となった。今日の式は2時間半、少し長かったかな―。ローソクがあり、洗礼があり、歌があり、朗読がありと、カトリック教会は実に劇的に救いの歴史を演出する。その中で、ピエロのように司教が立っている。喜びに溢れた2時間半であった。そしてその後、3階のラウンジは若者でごった返した。それもこれも、私にとって最後の務めとなった。来年はあの真ん中に立つことはない。マニラ巡礼をともにしたSさんが受洗した。仙台などはどんな式だったのだろう。種々の想いが交錯する。私は司教として最後の辞令を司祭各位に送った。そして私自身の辞令も自らが書いた。
雨上がり 炭火がはねて 徹夜祭
光る波 復活賛歌は 朗々と 修士 |
4月24日(日)
復活徹夜祭はおしめり程度の雨の中に始まった。炭が音をたてて燃える。光、賛歌、洗礼の水、約束のことばの唱和、全ては宇宙と神との出会いの場のようであった。高松は9つの朗読を全て行った。6人の受洗を含めて2時間半の長い儀式となった。長かったが美しい典礼であった。私は魂と心をこめてこの典礼を司式したつもりだ。わかなちゃんがつぶらな瞳で、受洗の時私の目をじっと見つめていた。のあちゃんは少し眠そうにして立っていた。
高松での私の務めはこれで全て終わった。後はどのように「後を濁さずに飛び立つか」にある。人のすることは大したことはない。ある人が去れば、また次の人がその人なりの仕事をしていくものだ。私にとっては、余生の意味がまだつかめていないところに課題があるようだ。 |
4月25日(月)
コンピューターを掃除していると、仙台教区司教に叙階される前に、教区の人々に送った手紙が残っていた。私の11年の歩みの始まりである。読み直して、こんな自分であったかを問い直している。
「司教に任命されて」 |
仙台に来てそろそろ1月になります。ローマから命令を受けてはや3月になろうとしています。後10日余りで司教叙階の式が行われます。私の思惑を乗り越えて、事態は進んでいきます。その間思うことも徐々に変わってきています。年が年ですし、これといった気負いは私にはありません。といっても何の抱負もないというのではありません。決められた任務期間に果たしてみたい希望は持っています。それも、これといった意気込みを伴ったものではありません。こんなことでは教区民に申し訳ないと思わないでもありませんが、別な面ではその方が個々の皆さんにはもっと気楽に迎えてもらえるかなという安易な気持ちもあります。それでも私が今思っていることを述べてみましょう。
「あるがままに受け止める」
人は"こうあるべきだ"という点から出発しがちです。その時には、こうでないと考えてきりきり舞いしてしまいます。それをしないと言っては、他人に対して厳しくなり、仲間内で争いを起こしてしまいます。ナルシズムとは、理想ばかりを求めて、その実自己陶酔の末に破滅していくことを指しています。私は、基本として"あるがままを受け止めることから出発したいと常づね考えています。そうすればこちらの気も楽ですし、他人も楽にしてあげられます。但しそこから"もう一つ何か"を求めていくことが大切です。現代社会は"こうあるべきだ"と考えて、そうでない人を厳しく糾弾する傾向があります。その反対に"どうでもよい"と全てを投げやりに認める傾向もあります。各人は自分のペースで、自分が真に正しいと思うことをしていけば良いのです。全てを統一して、それに合わなければ切って捨てるというものではありません。自分の正しさを生きるのと同時に、他人の正しさを認め、支えることが懐の深い人の特徴です。
「多様性の中の一致」
オーケストラは種々の楽器が自分のパートをうまくこなすことで成り立ちます。一色で統一したらつまらないモノクロになります。普遍的とは決して一色のことではなく、自分の色を出すことで調和を生み出す力です。こうでないといけないと主張する余り、教会が不寛容になる可能性が強くなることを私は恐れています。寛容であるとは何でも許していることではありません。許すとか、許さないとかの以前に相手を受け入れる懐の大きさの問題だと言っているのです。絶えず批判し、相手を糾弾し、そして共に手をとって歩むべき筈の仲間を結果的に傷つけてしまうのを恐れるのです。
「聖霊のもたらす一致」
これを私は自分の司教職のモットーにしました。真の一致は"上からの"霊による一致なのです。まず祈りをもって始まる一致であり、神の前に跪くことから始まる一致です。仙台教区においてはまず祈りで"ことを始める"習慣を持ちたいものです。聖霊は人を内からかえていく力です。自分が徒らに義を叫んでいる人間から真の改革は始まりません。
思いつくままに一文を認めました。私も司教職をます神の前に跪くことから始めようと今決意しているところです。 |
仙台教区被選司教 溝部 脩 |
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4月26日(火)
浜口末男被選司教の別れの宴を開いた。前菜として茶で油をそいだ豚肉、山羊のチーズに甘味を添えた一品、男料理の粋のような野菜サラダ、ロメオ師が頑張って作った豆スープ、そして荻師が持参した鹿の肉
――。最後は番町の神父達が持参したケーキで締めくくった。多くの歌があり、挨拶があり、賑やかであり神妙でもある一時を過ごした。私がサレジオ会に入った時、チマッティ神父が居て、いつも彼自らが立ってピアノを弾き、皆で沢山の歌を歌ったものだった。今も私というサレジオ会員の中にこの息吹は残っていて、やはり宴を盛り上げることを何よりも大切にする精神を受け継いでいる。さちと航貴が短い挨拶をしたのは良かった。パウロ神父のギターの弾き語りは絶品だ。Renato
Filippini 神父到着。いよいよ高松は変わり始める。
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