2011.4.9〜4.15 |
4月9日(土)〜10日(日)広島司教座聖堂での黙想会 広島司教座聖堂での四旬節黙想指導に出向いた。信徒の黙想、壮年会との対話、青年のカテケ―シスと、私は二日間話し続けた。のどが枯れて声が出なくなった。やはり年を考えると重労働であった。それでも祈りへの導きに共鳴してくれた方々を見ていると、希望に溢れてくる。 今のカトリック教会に一番大切なのは、祈る人が居るということである。評論家が多くても教会は良くならない。自ら祈り、行動する人がほしい。 疲れ果てて帰館 ――。二階で浜口被選司教との別れを惜しむ宴が開かれていた。すべてに時があり、すべてに別れがつきまとう。 |
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4月11日(月) 一日中本の整理をしている。高校生の頃から綴っている日記帳を捨てた。写真帳も捨てた。度々の転任でも捨てずに持っていたものを、全部捨てた。 これ以上の転任はあるまい。多くの司祭を看取ったが、いつも私物の整理に悩まされた。私は早めに自らの手で処分してしまいたい。といっても歴史の資料と自分が書いたノートが多く残っている。これもいずれ捨てることになるのだろうか。今はとっておこう。千利休が言う「枯高」の心境までには程遠いが、捨てて裸一つになる美学は共感できる。炭が灰になる時ことことと音を立てるのは、骨が崩れ落ちる音でもある。死を見つめた時、不要のものが見えてくる。 |
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4月12日(火) 仙台教区を出る時、仙台の広報部が集めて送ってくれた文集がある。久しぶりにそれを読み直した。今苦労している方々の当時の私への温かいことばの数々があり、涙がこみあげてきた。どうして仙台を去り、四国に行くのかという問いかけが、沢山そこには載っている。神様はこの異動を通して何を私に求められたのだろうか。懐かしく、CさんとHさんに電話する。明るい声で話していて嬉しかった。どこに居ても人と交わり、人とかかわるということは、大切なことなのだろう。 その時分からないことは、数年経ったときに神さまは分からせてくれる。仙台教区に1千万円送った。お金で思いを全部託すことはできないと分かりつつ ――。 |
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4月13日(日) 佐々木安徳さんが末男神父のお別れに訪ねて来たので、夕食を共にし、歓談した。5年前に発足した宗教者平和懇話会の発起人の一人であった。本願寺の系統を詳しく説明して貰ったのが印象に残っている。人を笑わせ、食卓を賑やかにさせてくれたのは彼であった。 宗教は組織になると腐るというのが彼の自論である。政教分離についてシンポジウムに招かれた時、仏教系の人の考え方が知りたくて彼を訪ねた時、西本願寺の社会活動家のお坊さんを紹介してくれた。私に贈ってくれた色紙にはこんなことばがある。心筋梗塞で倒れた直後のことばである。仏教もキリスト教もその真髄は変わらない。
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4月14日(木) 司教館のチャペルに一本の松の枝がある。生月で殉教したガスパル西玄可が葬られたと言われる場所に生えていた松を切ったものである。西一家は全員殉教したことで有名であり、息子はドミニコ会の司祭として殉教した。 仙台教区に居た頃、初めて青森を訪れた。その時長崎から結婚のため青森に住みついた女性と出会った。私が長崎から来たと聞くと、懐かしさのあまり私の手を固く握って泣いた。翌年、弘前の信者と一緒に長崎巡礼を企画した。その途中、件の女性の実家のある平戸口の田平教会に寄った。彼女の実家Hさんを訪ねて、100年以上も昔に使っていた田平教会の長崎のガラス(ステンドグラス)が信者の家に配られているのを知った。Hさんの家のガレージには、ステンドグラスがそのまま保存されていた。その頃、仙台司教館を立てる計画が進められていた。私は咄嗟に、このガラスを使って司教館のチャペルを飾ると決めた。ステンドグラスを貰えないものかと厚かましくもたずねたところ快諾して下さったので、気が変わる前にと帰仙してすぐにトラックに乗って貰い受けに行った。それが現在の仙台司教館のチャペルの窓につけられて、美しい色を奏でている。
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4月15日(金) 7年前高松教区に着座した時、荘厳な「従順の誓い」が式中に組まれた。司祭、修道者、そして信徒と声を合わせて司教への従順を表明した。梅村司教の説教も池長大司教の挨拶も司教への従順ということを強調した。当時の教皇庁大使デアンブローズ大司教は、やはり従順ということにふれた。7年経って、この従順なるものは何だったのか私自身に問うている。自分達の考えや行動を優先する限りにおいて従順はない。従順ができるためには、自分を捨ててかからないといけない。 "Vir obediens canit victoriam" (従順な人は勝利を歌う)と詩編にある通りである。今私は、新司教の手の下で自分をゆだねようと思っている。 |
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