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3月20日(日)
移住移動者委員会主催の研修会。高松教区の人々は良く準備した。こうして一つ一つに自信をつけていくのであろう。全国単位の行事を、少しずつ教区が担当して行けば良いのだろう。その中に教区が自立してくる。シスター・ギリスのお別れでもあった。四月から教区はまったく新しい出発になる。神様の手の中に任せよう。 |
3月22日(火)日暦
- 有頂天になった時、自分を襲ったのは思いもかけない腰痛だった。思い上がってはいけないとの天の声と考えた。
- 毎朝座禅することが習慣となり、年をとることを学ぶ。
- ブツブツ独り言を言うことが多くなった。祈りなのか、ぼやきなのか。
- 全世界を手に入れてもその魂を失えば、何の益があるのか。本当だ。
- 聖体ランプは聖堂の一隅を照らしている。大きな慰めだ。
- 教会に行くときには必ず聖体にあいさつすること。慰めも大きくなるはずだ。
- 「み手の中に」。今日出会う人に必ずあいさつしよう。
- 夕べ一人になって、今日出会った人々のために小さな祈りを捧げた。
- 「今は眠りからめざめる時」(ローマ13、11)。惰眠を貪っていてはいけない。与えられたこの時を生き生きと生きなくては。
- ステンドグラスがある私のチャペル、朝に夕に彩りを変える。私に代わって神への賛美を捧げている。
- 子どもたちを喜ばせるために、今日は料理の腕をふるってみよう。神さまが見ていてくださる。
- 「いつでもロザリオ、どこでもロザリオ、みんなでロザリオ」(永井隆)。
- 「我渇く」(ヨハネ19、28)。耐えられない苦しみがあれば、座って目をつぶることだ。
- 「なぜ。どうしてこんなことが私に起るのか。」「み手のままに」で結ぶ祈り。
- 毎日聖書をひも解くと、人生の何かが見える。大切なのは、毎日聖書を開くことだ。
- 時々床に伏したり、両手を挙げたりして祈るとよい。体操にもなるので、一挙両得である。
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3月23日(水)日暦
- 朝の空気を思い切り吸う習慣を身につけると、一日が晴れやかになる。思い切り両腕を大空につき上げるのも悪くない。
- 「みことばは両刃の剣より鋭く、魂と霊、関節と骨髄を切り分ける」(ヘブライ4、12)。神のことばは甘ったれたケーキの上のクリームではない。
- マザー・テレサは言う。「数を数えたいとは思わない。今会っている人のことを考えたい」(12月10日NHK放映)と。
- 雨が降れば恵みの雨と思い、晴れになれば、神からの賜物と感謝する。「いつでも感謝、どこでも感謝」!
- 何がなんでも攻撃してくる人に、どうすればよいか悩むことがある。なるようになるのだろう。
- 20年経って和解して握手できた。恩讐の彼方に、それなりの時間を経て、その手のぬくもりを今は感じる。
- ゆるしを願うのは何てむつかしいことなのだろう。自己愛の権化のような自分にいささかうんざりする。小さな祈りからはじめよう。
- 「沈黙の実りは祈り、祈りの実りは信仰、信仰の実りは愛、愛の実りは奉仕、奉仕の実りは平和」(マザー・テレサ)。
- 「やさしさが培われた心は成熟し、批判で培われた心は未熟にとどまる」(バレンタイン・スーザ)。
- 「人の命は草のよう、あしたには花を開くが、夕べにはしおれて枯れる」(詩編90)。何をそんなに悩むのか。全ては過ぎ去る。
- 周りにベトナム、フィリピン、韓国、中国から来た人が多くなった。身近なところから共生してみよう。
- 夕闇が迫るとき、一斉にざわめく街路樹の下を歩く。一日の戦いを終えた実感あり。
- 優しいことばを受け、温かいまなざしをあびる。今日一日安らいでいる。明日あの人に優しいことばをかけてみよう。
- 時々誰かがそばに居てくれたらと思う。誰かのそばに居てあげることのできる自分なのに。
- 痛いほど苦しみが伝わってくると、無言になり、時々無表情になる。思い切って吐き出せば、何かが始まる。ゆるしの秘跡はそんな場なのだ。
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3月25日(金)
次の司教が決まった。やっと私も一息つける。浜口神父は、大分の司教として赴任して行く。諏訪神父と浜口神父、この小さな高松教区から二人も司教がでる。小さくても貧しくても真に福音を生きる、こんな生き方をしているところから次の人材が生まれてくる。私の7年間もよかったのかもしれない。複雑な想い ―― 。 |
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