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司教館の窓から
2011.2.17〜2.25
2月17日(木)
 司教会議終了。中央協議会の一室より京葉線を走る電車が見え、最近増えたマンションが広がっている。
 今回の司教会議で「復活の主日の典礼」が扱われた。2002年の「ローマ規範本」の翻訳を見直す作業が行われた。典礼本翻訳に慣れてきたのか、込み入ったラテン語をうまく訳すことができるようになっている。やはり経験を積み重ねる必要があるのだろう。安易な訳文で満足しないで、ことばを選ぶ作業をくり返す中に、インカルチュレーションが成っていくのかもしれない。規範本前文に、聖週間の儀式は大切なものであり、くり返してはならないと明記されていることを心に留める。
2月19日(土)
 シグニスでの講演会。真面目にメディアに取り組み、新しい福音宣教を考えようとするグループがある。宗教改革の時代、新しい技術、活版印刷を宣教のために積極的に取り入れなかったカトリック教会は、プロテスタントに100年も200年もの遅れをとってしまった。どのようにこの新しいメディア、ネットを用いて新しい時代に挑戦して行くのか、これは大きな課題である。
 折しも来年開かれるシノドスのテーマ「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」にもつながっている。伝統的に守ってきた教えを、新しい発想法を通して伝える能力が要求される。技術のみに走らず、内容を伝える手段としてのメディアの効用。メディアに使われるのでなく、使いこなす人間が必要だ。
2月22日(火)
 窓を開ける。雪原から冷たい空気が、心地よく暖かい部屋に流れ込んでくる。函館のトラピストは澄み切った大地にある。
 トラピストの聖堂はノアの箱舟をかたどっていて、その中に天井からぶら下がった聖櫃がある。聖櫃の周りには、聖霊を表す赤、洗礼を表す青、希望のしるし緑の光が点在している。聖体がある中心部分は黒、闇である。キリストの現存を分かるためには、周りの色を見つめていなければいけないとトラピストの修道院長吉元師は言う。キリストは、闇の中にじっとうずくまっているというのだ。キリストを見出すには、聖霊の力をかりて行きとし生けるものの中にキリストを見つける作業をしないといけない。自分の人生に起るすべてのことにキリストを見出す―― 何てやさしくて難しいことか。
2月23日(水)
 吉元師曰く、火星はまっすぐには回転しない、先に進んではまた戻り、また進んでいく。トラピストの空は星の動きがよく見てとれるとも言う。昨日は寒月が雪原を青く照らしていた。人の目で見る時、火星の動きは異様で変である。しかし火星から見れば、それこそ自然であり、理に適っているのだ。人の論理のみに引きずりまわされていると、神の論理が分からない。神の論理がわかるには、神の視点に立って物事を観る習性を身につけるほかない。
2月24日(木)
 トラピストの共唱の祈りはゆったりとしている。最初は遅すぎるといらいらしたが、慣れてくると実に味わいがある。歌うことばに主点がおかれている。ゆったりとしたリズムの中で、不思議と心が落ち着いてくる。忙しさの中で忘れていた祈りの心である。平生騒音の中に生きているだけに、ほっとした時間が持てたことが何よりも嬉しい。もう少しこのままで居たいものだ。
 2月25日(金)
 アウグスチヌスは「絶えず祈りなさい」の句を、「神へのあこがれの祈り」と解釈した。森羅万象、人生に起る全てに神を求め続ける人の祈りである。神は人の安息の中に神を体験する空間をつくった。神は人との一期一会の中に感動する空間をつくった。神は人を取り巻く自然の営みの中に、神を体験する空間をつくった。自己満足でなく、虚栄心でなく、生きている呼吸の中に神を感じ続ける感性を神はおつくりになった。こう考えると、今こうして生きていることが何と嬉しいことか!

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