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司教館の窓から
2011.1.12〜1.21
1月12日(水)
 教区事務所全員のための新年ミサ。マルコ福音書を解説した。荒野に響く洗礼者ヨハネの声、それは、イエスとともに新しい時代が来るとの雄鳴き声であった。壮大な時代の幕明けである。しかし、イエスがもたらした新しい時代とは、悪霊に憑かれた人たちにゆるしを与え、病気をもった人にいやしを与えることであった。決して華々しい「力と数」を誇る宣教ではなかった。「いやしとゆるし」をもたらす小さな貧しい集団をつくりあげることであった。
 教区中枢に働くとは、教区の人々のための奉仕であることをしっかりと意識しなくてはいけないことを確認した。
1月13日(木)
 タイガーマスクが各地の施設にランドセルなどを贈ったというので、最近の話題になっている。小さな善意の輪ということで、皆の気持ちを代弁しているからであろう。タイガーマスクにしても、足ながおじさんにしても、個人の善意が積み重なると、何かの運動になるものだ。
 私はNGOで「ドン・ボスコ海外青年ボランティアグループ」を立ち上げた。その時痛感したことは、外務省の対応が一切宗教的な活動に対しては援助を行わないということであった。しかし外国の実状に詳しい人は、宗教者がその国の貧困と戦っていることが多いのを知っている。国から国へ渡る多大な援助は、苦しむ人々に効果のある援助にはならないことも知っている。NGOのような仕事をしている人々を通して確かな援助が送られるよう方策を考えない限り、日本国の支援は不毛なものになる場合もある。
1月15日(土)
 駄句3首、大寒によせて。
    大寒や 窓曇らせて 鴨の鍋
    くつくつと 鴨の鍋煮て 冬の宴
    血圧と 見比べての起床 冬の朝
1月16日(日)
 昨日、「女性の視点から教区を考える会」の役員の集まりが開かれた。総勢15名。率直な意見の交換で、とても好ましいものであった。女性が口を開くと行動に移されるのが面白い。
 一昨年「教会の中における女性の役割」、今年は「環境と霊性」という二つの大切な課題の研修会を開いて成功させた。委員会名にある通り、女性の視点から教区に辛口の提言をしてくれることを期待している。とかくお茶汲み的婦人会で通っている教会の中の通念を打ち破ってくれればよい。
1月19日(水)
 昨日より日本カトリック教誨師の全国大会が岡山で開かれた。刑務所や少年院で教誨の仕事に携わる人達の集まりだけあり、その発言には重みがあった。長年会長職を担ったコサカ神父が、病身ということもありアメリカに帰国するので、次期会長についてひともめした。世界の教誨師との関係、プロテスタント諸派、または諸宗教との関係も密接であるから、会長の責任は重く、容易に候補者を互選することはできなかった。
 こうした地道な活動をする人たちが、実際に教会を下から支えてくれているのであろう。
1月20日(木)
 『道』に関して司教書簡を教区内に配布した。この6年半、実に多くの困難を私にもたらした問題である。命令系統が2つあれば、教区の一致をつくりだすことは難しい。頭は一人で良い。そうでなければ混乱を生みだす。『道』の人達は信仰あつく、キリストへの愛にも熱く燃えている。しかし、その熱さは独善的になると分裂を起こす。
 今回このことでローマに呼び出され、私はローマの威を借りて自分達の特権を司教に認めさせようと裏で動いていると感じ、ひどい不快感を覚えた。教区の一致を何よりも大切にしてもらいたいと、『道』の人々に願う。
1月21日(金)
 徳島キリスト教連合会で、牧師さん達に「キリシタン時代の初期宣教」について語り、宣教について1時間ほど話し合う。とても有意義だった。
 キリスト教を伝えることについて、プロテスタントの人達と話し合うのは良いことだ。仏教の人達との平和懇話会、牧師さん達との会合と、確実に何かが実っている。宣教には横のつながりを広く持つことが大切である。多くのつながりを持っている人は、宣教の可能性も高い。

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