2010.11.20〜11.26 |
11月20日(土)〜21日(日) 高松塾の数名と五島の旅に出かけた。彼らは船から船に乗りついで、五島には日曜の朝ミサに駆けつけることができた。私は博多より飛行機で福江に到着した。早朝、内折巡回教会でミサをたてた。海岸のすぐ近くの、小さな巡回教会である。といっても四国のいくつかの教会よりずっと信徒数は多く、子供もいる。二番目のミサは福江教会で行い、午後、「初期中期キリシタン時代の宣教」というテーマで講演を行う。よく聴いてくださる。このテーマについては、いつか教区の中でも話そうと思う。400年前の司祭達は日本という異なる文化の中で生きる日本人にどのようにキリスト教を伝えるのかを真剣に考え模索したのであった。今は、余りにも軽々しく宣教を考えているのかもしれない。教える内容、方法 ― 真剣に考えてかからないといけない。 |
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11月22日(月)
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11月24日(水) 権威者を利用して、自分の思惑を達成しようとする人達に出会うことがある。時々それは巧妙であり、権威の蓑に隠れて事を成し遂げる陰険さがある。嫌な役を上に押し付けて、自分は手を洗うという卑怯さでもある。 それに反して、権威を素直に認めて、そのためにあえて汚れ役を引き受ける人達がいる。このような人達こそ、信頼に値するのではないだろうか。 |
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11月25日(木) 司教館に二つ間仕切りの部屋ができている。福音にそって生きたいと思う青年が、司教館に住みついている。「現代の若者は」などとうそぶいている時ではない。この青年達と共に、既成概念に埋もれがちな日本の教会を下から揺さぶることができたら、何と嬉しいことだろう。生き生きと生きている彼らを見るにつけ、「召命がない」とぼやいている私達大人世代を恥じる。 |
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11月26日(金) 傲慢について、よく冗談交じりに仲間内で話したことがある。「謙遜を装った傲慢」「傲慢を装った謙遜」と「傲慢な傲慢」という風に分類して、誰がどの傲慢に属するかと笑い合ったものだ。 謙遜を装って、その実慇懃無礼ということがある。いかにも謙遜ぶって、その実偉大な策略家でありうるものだ。威張っているようで、その実謙遜である例にも事欠かない。時々それは虚勢に見えたり、つっけんどんだったりで、敬遠される恐れがある。 傲慢そのものを前面に出しているが、妙に嫌われない人もいる。ただ自分を宣伝し、すべての話題を自分に向けようとする時、周りの空気は重くなる。それに気付かない傲慢は、ちょっと頂けない。 こんなことを笑いながら話した仲間の大半は、この世を去った。真に謙虚な人は、自分の分を弁えて、そして黙々とより良い善を生きる人のことを指すのであろう。 |
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