2010.9.20〜9.23 |
9月20日(月) 長崎教区典礼研修会 長崎教区典礼研修会に講師として赴いた折り、フランコ・ソットコルノラ神父より、「記念する」ということについて、2時間講義を受けた。ヘブライ語で’zakar’という単語を使っている。「記念する」というと、何か、昔々のことを思い出す位の意味でとられがちであるが、’zakar’ は、神がして下さったこと、して下さっていることを思い起こし、そのようになるよう祈ることを指している。神は今働いて、人の救いを成就させているのである。 ミサの中で、「記念しなさい」との命令をイエスはしている。イエスが十字架上で死んだこと、復活したことを記念するのだ。しかも、これを通して、キリストのいのちに生きている自分を思い起こす。単なる思い出ではなく、実際にミサを通して主が私達に働いておられることを思い起こし、感謝し、新しいいのちに生きるのである。 長崎教区での典礼研修会、その熱気は、十分に私に伝わった。教会は確かに刷新されつつあるとの実感である。 |
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9月21日(火) 「聞熏習(もんくんじゅう)」 立正佼成会で「聞熏習(もんくんじゅう)」ということばがあるそうだ。聞いたことの記憶が甦って、それが身にしみついて、人の生き方を変えていくという意味だ。 その中に、ある婦人の話が載っていた。視力を失い、ご主人が手を引かなければならない状態になった。その時、その奥様は、「目が見えなくなって、主人と手をつないで歩けるのがうれしい」と言われたとのこと。これこそ信じるということなのであろう。足りないことをブツブツ言っている自分を恥じる。 |
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9月22日(水) 下手な句三つ
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9月23日(木) 「他生の縁」 「袖触れ合うも他生の縁」。私はこの「他生」を「多少」と思っていた。しかし、実際には、昔から何かの関係があったということで、多少とも縁があったということではないようだ。 キリスト教で原罪というと、何かおぞましい人の性(さが)のようなものを感じさせる。どこか陰気な、ドロドロした深淵を思わせる。私は輪廻を信じているわけではないが、「他生の縁」と聞かされると、これがすっきり分かる気がする。人間の歴史の過ちを背負って生きている私達は、それに加えて、また愚かな過ちを犯してしまう。それが次の時代に重荷を荷わせていく。この悪の連鎖を断ち切るために、いろんな宗教が教えを奉じている。原罪を、このように思い巡らしてみる。 |
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