2010.9.11〜9.18 |
9月11日(土)12日(日) サレジオ会叙階式 サレジオ会の司祭叙階式が、東京下井草教会で行われた。私は、久しぶりに叙階式を司式した。修道会に属する司教なので、自分の修道会会員の叙階式を行うことにためらいがあり、今まであえて行うことをしなかった。教区と修道会の関係に、徒に摩擦を起こさぬよう余程自重してかからなければならない。今回は、中津で院長をしていた時の教え子が助祭に叙階されることもあり、喜んで引き受けた。 それにしても、サレジオ会の熱気はすごい。若者が溢れていた。日本教会は元気がなく、消極的であるとの批判を目にしたことがあるが、そんなことはない。若者に果敢に切り込んでいくサレジオ会の溌溂とした若さは、若者をしっかりと惹きつけるのであろう。それにしても、焼けつくように暑い叙階式であった。
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9月13日(月) 叙階式に想う 真田登美彦はとうとう助祭になった。真面目で、少し融通の利かない男でもある。しかし、芯はしっかりとしている。幼い時に家庭を離れ、施設で育った。そして、思春期の中で、私は彼に出会った。 その頃、大分県立大学で講師として教えながら、その他の時間は養護施設に過ごしていた。ここでの生活は、私の司祭職を大きく塗り替えた。24時間勤務でこの子たちとつき合わない限り、教育の実りがないことを知った。決まったお勤めを果たして、それで終わりという仕事の職員を、子供達は冷静に見てとっていた。本当にかかわってくれる人は誰かを、彼らはよく知っていたのである。 一昨日、彼の上に按手した時、万感の想いが私の頭をよぎった。人生やはり情熱をもって生きていくべきだ。小出しに自分に都合のよい仕事をする限り、その実りはない。
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9月14日(火) 自然体 沢庵和尚のことば。「心の置き所、心をいずこに置こうぞ。敵の身の働きに心を置けば、敵の身の働きに心をとらるるなり ―わが太刀に心を置けば、わが太刀に心をとらるるなり― とかく心の置き所はない。」 心をどこに置いても、それにとらわれて試合に負けるという。一か所に心を向ければ、「偏りに落ちる」という。偏らないで自由自在に動くこと、自然体で刀が動けばよい。なかなか難しいものだ。今この一瞬、そこに全心を集中させることに、意義があるという。 |
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9月15日(水) 「福音と社会」の記事に想う 「福音と社会」(vol.251)に、佐々木宏人氏の連載「戸田教区長射殺事件」がある。戦中、戦後の生々しいドキュメンタリーである。現代に近いだけに、まだ存命な人も居ることだろうし、生前の関係者を知っている人も大勢いる筈である。それだけに、この種のドキュメンタリーは、気配りのある文章を心がけなければならない。 人は時代の枠の中に生きるのであって、誰もそれを逃れることはできない。連載とあるので、次号を楽しみにしている。一方的に決めつける文にならないことを希望して―。 |
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9月16日(木) 「教区の目標」に向かって 司祭評議会と宣教司牧評議会で、「教区の目標」を見定めるべく、種々提案を行い、決議している。「どのような教会であってほしいか」との根本的質問に、四国の諸教会は真剣に答えている。私は、小さい教会だけれど真摯な四国の信徒に誇りを感じている。イエス様が望んだ教会は、どんなものだったのであろうか。譲ってはならないもの、変えていかなければならないもの、この際、全部洗いざらいぶちまけてみてはどうか。それにしても、福音の読みが基本であることを忘れてはなるまい。
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9月17日(金) どんな教会でありたいか 宣教司牧評議会が開催された。各県は、教区民の集いに向けて歩み始めている。大きなテーマは、「どんな教会でありたいか」である。何度かピンポンのようなやりとりの作業をくり返す中で、ゆっくりと意識の改革は行われる。意識の改革を急ぐと、ことは成り立たない。忍耐して聞き、ここと思う時には猛進することである。 高松教区の信徒代表は、女性が圧倒的に多い。4県の内、3県が女性である。多分、時のしるしなのだろう。男性より柔軟性があるかもしれない。「女性の観点から教区を考える委員会」も、少しずつ芽を出しつつある。忍耐をもって待つことだ。 |
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9月18日(土) 典礼に思う 長崎での典礼研修会。私は、「キリシタン時代の典礼」について話す。400年前の宣教師が偉いと思うことは、何とかして日本の文化を学び、日本の風習に適応しようとしたことである。日本人の風習に合わないものは、たとえ典礼であっても、実践しなかった。昔は、洗礼の時に唾液をつけたり、胸元に聖香油を塗ったりしたのである。しかし、当時の宣教師は、これらは日本の風習にふさわしくないと適用しなかった。女性の体にふれることも、絶対にしてはならないことであった。清潔を旨とする日本人の潔癖に合わせて、聖具についても聖堂についても、細かい規則をつくった。 現在は、どうもローマ典礼を全世界に一律に課している傾向がある。今一度、典礼はその土地の文化の中に花開くものでないといけないことを、思い起こすべきである。懐古趣味的な典礼の刷新を叫んでいる人達にも、その本質をよく分かった上で、それをどのように現代に生きる人々にわかるように表現するかを、真剣に考えて貰いたいものだ。 |
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