2010.8.14〜8.20 |
8月14日(土) 韓国の旅(1) 下関よりフェリーで釜山へ。総勢12名。実に良い旅であった。初日は国立釜慶大学の学生、教授達との対話。若者はことばの壁を越えて燃え上がる。釜山の教授たちへの講演を依頼されたりと、私にも大きな刺戟となった。 午前中は司祭館訪問、同所でミサ。日韓百年の歴史をしっかりと理解する必要性を説いた。歌を二曲しっかり覚えて、どこでも感謝の気持ちを表すために歌ったのはよかった。晩は疲れとみんなで飲んだお酒でバタンキュー・・・。 |
8月15日(日) 韓国の旅(2) 日本にとっては終戦記念日。韓国にとっては解放の日。真理は裏表、両面から見ないといけない。現代歴史博物館を見て、旧溝部宅跡地を見、終戦の日の思い出を若者に聞かせる。日本が韓国に対してしたことをしっかり見つめて、改めてお詫びがしたいと思った。若い人たちはこんな歴史を初めて知って、勉強になったと言っていた。 夕方のミサは、大きな聖堂が人で一杯になった。釜山教区あげての歓迎であり、合唱隊の迫力はすごかった。日本の歌では、こんなに腹の底から歌えない。一考の余地あり。 韓国の青年との分かち合いは、腹蔵ない意見の出し合いとなった。率直に自分の感情を表現する韓国青年に対して、素直にそれを受けとめ、未来を志向した提言をする日本人青年のことばは、聞いていて心地よかった。次の時代をつくるのは彼らだ。大きな希望と期待をかけたい。 それにしても、韓国の人達の歓迎は実にすばらしい。感謝感激! |
8月16日(月) 韓国の旅(3) 慶州への旅。途中で、最近世界遺産に指定されたばかりの村に立ち寄った。日本の高山に似ている。ただ、暑いのには参った。昨日の雨でびしょぬれになったのと、この日の太陽とで、体が狂ってしまった。慶州泊まり。久しぶりに日本人だけのふり返り。やはりことばが通じるというのは良いものだ。12才のみなとちゃんが、しっかりとした発言をしたのには驚いた。この子も大人に交じっての旅で、疲れるだろう。 |
8月17日(火) 韓国の旅(4) 午前中、カトリックセンターでのミサ。この旅の実りについて分かち合った。日韓の歴史を知ることができたこと、韓国の人達と交流できたこと、もてなしの大切さを学んだことなどが主な感想であった。 私にとっては、自分が育った土地、この地を去りゆく船上より、複雑な思いで釜山を眺めた。上弦の月が赤く輝いていた。 |
8月19日(木) 「感」と「観」 「無常感」と「無常観」の相違について考えた。「観見の相」ということばがあるが、「観」は腹の底から観ることで、真如が見えるということだ。真如とは、あるがままの姿である。「観」ができるには、「無我の境地」になることだとも言う。「感」の方は感傷的に「見る」ことで、この世の無常を嘆く「無常感」である。この感傷に耽っている限り、真如は見えない。移り行くものの中に、真の相、これを菩薩と呼ぶにせよ神と呼ぶにせよ、そこに真の人間の姿が見えているのである。「人生は長くて80年、影のように」と詩編作者は言う。実体のない人生のようであるが、「観想」すれば、そこに計り知れない恵みを感じ取ることができるものだ。 |
8月20日(金) 「風立ちぬ」 「朝日待つ 草葉の露のほとなきに いそぎなたちそ 野辺の秋風」 道元 朝日が出るとまもなく消えていく朝露に、追いかけるようにして秋風が吹いてくる。 立秋も過ぎた。茜雲の動く様に、暑い中にも秋が感じられるこの頃だ。堀辰夫の「風立ちぬ」はわたしが愛読した書だ。繊細で、自然の美しさがあり、はかなく見えるこの世の愛憎に、たまらないほどの愛惜を覚えさせる。北軽井沢のある別荘を、毎年毎年訪れて倦くことはなかった。壮年期を経て詩心を失った時、人生の味わいをなくす。久しぶりに信濃路を歩いてみたいものだ。みずみずしかった私の感性が、少しは甦るかも知れない。 |