戻る
司教館の窓から
2010.8.1〜8.6
8月1日(日) 大掃除
 7月30日、31日は司教館の大掃除。これには種々の目的がある。第一には、仕事を外注せずに、経費を節約すること。第二は、年に2回大掃除をして、自分達の使う家を整えること、第三は、一緒に仕事をすることで連帯意識をつくること。西川事務局長が就任して4年、毎年これを繰り返してきた。そして回を重ねる度毎に、本部で働くスタッフの一体感が、確かに生まれてきている。
 祈りや聖書の勉強を通しての共同体づくりも大切だろうが、それ以上に、ともに汗して働くことを通して生まれる共同体の絆は、もっと大きいように思う。どこの社会でも、年に一回全員で大掃除をする習慣があれば、皆が目に見えて一致することになるかも知れない。
8月2日(月) 金沢訪問(1)
 高山右近列福の件で、7月下旬に金沢を訪れた。彼の晩年27年間は、ここ金沢にある。委員会の後、夕食のため寿司屋に入った。入って間もなく、寿司屋に入るかどうか迷っている様子の外国人のカップルが来た。店の女性が引き込みに行ったが、どのように寿司を食べるのかが分からず、迷っていたらしかった。同じカウンターに座ったが、もじもじしているし、店の人達もどう説明したものか戸惑っていたようであった。
 私はいつものお節介で、英語で寿司の頼み方を教えたが、相手の英語がイタリアなまりなので、イタリア人かと聞くと、そうだ、というので話が弾んだ。寿司と日本酒の味わい方を教えている中に、北陸金沢の夜は更けていった。最後に記念撮影をして別れた。
 小さな日本の外交ができたことに感謝した。おまけに店の主人は、通訳をしてくれたという感謝の気持ちなのか、料金を取ってくれなかった。
8月3日(火) 金沢訪問(2)
 能登半島は高山右近の領地である。金沢の郷土史家木越邦子氏の案内で、関係の場所を尋ねた。高山家の子孫の墓所といわれる場所を初めとして、数か所を廻ったが、一番印象に残ったのは常行寺であった。住職はこの寺をキリシタン寺と称し、キリシタン関係のものが多く残っていると言ったが、実際多くのものを見せて頂いた。
 全部をそのまま鵜呑みにできない気はするものの、確かにキリシタンと関係があったと言えそうである。前田家の姫、豪姫とか福姫は信者であったし、彼女たちは迫害が起ってからは、この下屋敷に軟禁されたのであった。また、右近が、自分の領地を視察する時の、宿泊所でもあったという。木越氏が言う通り、歴史は机上で勉強するだけでは足りないということが、よく分かった気がする。近代史料館を調べる必要があるので、金沢にはまた訪れることになろう。
8月4日(水) 若者たち
 最近、司教館は若い力に溢れている。神学生が2名、夏休みで帰省していることと、司祭になる希望を以て同居している3名がいて、若い人たちといると、活気が溢れてくる。ゴミを毎日出し、段ボールを整えて売りに出し、賄いの方が休みの時は食事をつくるといった具合で、非常に重宝している。何よりも、子供たちや中高生のバンドを指導したり、海に連れて行ったりしてくれるのは有り難い。
 司祭や修道召命の識別というと、すぐ高名な霊的指導者とかシスターの所に送って、祈りと黙想の体験をさせると考えがちだが、私は全面的に賛成はしない。司祭達と生活を共にし、汗を流して働き、ともに聖書を読んでいく。この中で、司祭・修道者の召命が生まれてくると思う。願わくは、今ここで一緒に生活している青年の中から、次の世代を荷なう司祭が輩出してほしいものである。
8月5日(木) 平和行進
 広島平和公園よりカテドラルまでの、平和行進に参加した。平和への願いを外的に表す機会と心得て、毎年参加している。近年の傾向は若者や子供が増したことであった。嬉しい限りだ。日本がこの65年、戦争をしないで平和に過ごせたのは、最大の恵みである。今更、戦争がいつでもできる国になる必要はない。今年、我らのグル―プを何と勘違いしたのか、ある一団が「広島から出て行け!」とシュプレヒコールを行っていた。拳を振り上げるあのコールは、何となく不気味である。私は好きではない。それにしても、四国の教会からの参加が少ないのが気になる。平和への想いは、なにかの形で表現すべきだと思う。
8月6日(金) ことの本質
 「カトリック生活」の八月号に、来住英俊師の「キリスト者と思想の交差点、アメリカ」との一文が掲載されている。日本の社会の閉塞感は、アメリカとの関係を直視せず、それを国内の憲法九条論や沖縄基地問題にすり替えて、国内での熱い論争の的としているこの矛盾にあるという。アメリカと対等に交渉できない日本の甘えの体質は、戦後65年のゆがみの中で、身体にしみついてしまったものかもしれない。
 カトリック教会も、教会内部の問題に躍起になっていて、教会のあるべき姿そのものにメスを入れる、円熟した体質に到っていないのかもしれない。対等に相手とわたり合うためには、ゆるがない神学的基盤と臆せずに発言する膽力が必要なのであろう。

戻る