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司教館の窓から
2010.4.16~4.20
4月16日(金)
 寒い日々が続いている。今年は気候が異常に感じられる。地震が各地に発生して、止まるところを知らない。この世界はどうなっているのだろうか。今週より「マルコによる福音」の勉強会を開始した。暗澹たるこの世界に一条の光が差し込んだという箇所からマルコは文を起こしている。マルコが本を書いた時代は当時の人々にとって荒涼たる砂漠と映っていたのかもしれない。その世界に「荒れ野に叫ぶ」ヨハネの声が聞こえるのである。気候異常があり、暗澹たる世相の中で謙虚に神の使いの声を聞かないといけないと真に思う。
4月17日(土) 
 先週一週間韓国を旅した。まず光州(カンジュウ)を訪れ、ソン神学生の家族を訪問した。素朴な、そして息子を日本に送ったことへの心配を抱えたご両親であった。ことばは通じなかったが、温かい何かが通じ合って心地よい時間を過ごすことができた。それから居酒屋で韓国の青年たちとほんの短い時を過ごした。こんなに真面目にものごとを考える青年たちがいることがたまらなく嬉しかった。今年の夏、高松の青年たちとの交流を考えてみようと思う。素朴な韓国は、私が忘れていた昔の日本を思い起こさせてくれた。
4月18日(日)
 ボーイ・スカウトのためのミサを観音寺で捧げる。この子どもたちのために生涯の大半を捧げて生きている指導者たちには頭が下がる。指示待ち族といわれる子どもたちが多い中で、実地に生きることを教えるスカウトの教育方針は大事なことだ。高松教区は青少年育成を第一の優先課題にしている。その一端をこのスカウト運動は担っている。教育を学校任せにする体質から立ち上がる、これが現代の日本の教育の大きな課題である。
4月19日(月)
 光州に行った話しの続きであるが、ソン神学生を送ってくれた光州教区の大司教と光州神学校に挨拶に行くのが今回の目的であった。3年前光州の大司教と会った時、私は高松教区のために神学生を派遣してくれることを願った。彼は司祭ならどうかと提案したが、私は司祭でなく神学生が欲しいと主張した。司祭は出来上がっていて、余りにも事情が違う日本教会に馴染むのがむつかしいと私が判断したからであった。きちんと日本語を習得し、日本の文化を理解した上で日本での宣教ができるには、神学生が最上であると考えたからであった。実際ソン神学生を見ていて、それは決して間違っていなかったと確信するに到っている。その旨の報告を大司教にして、とてもそれを喜んで頂けた。大司教が自分の顧問会の司祭たち全員を集めて私の話を聞かせてくださったのも有難かった。
4月20日(火)
 復活祭後、ソン神学生と韓国光州を訪問した時のことである。今回の訪問の目的は光州教区の大司教と大神学校の院長に感謝するためであった。それが終わって、小学校時代を過ごした釜山を訪問した。仙台時代に知己となった韓国の人達に案内され、私が育った家を訪ねることにした。どうして良いのか分からないので「近・現代歴史博物館」を訪問し、昭和十年代の市街地図を発見した。その地図を頼りに自分の家があった場所に辿りついた。今は居酒屋となっていて昔の面影は全くない。家の前を小川が流れていたが、そこで終戦の玉音放送を聞いたのを覚えている。
 七十五才の今、戦前、戦中、戦後と動乱の時代に生きたことを、そこに立ちつくしたまましみじみと思った。その中で神様が教会に導いて下さったことに深く感謝して頭をたれた。

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