年間第9主日ミサ説教

2011年3月6日
於:桜町教会

 聖書を読む時二つの心構えが必要です。それは古典を読む時も同じ事でしょう。すなわち聖書が書かれた背景がなんであるかということを分かること。それから何を目的として書いたかということを分かること。第二は,それを現代の状況に合わせて,その言葉を理解して味わう,この二つに限られます。

 今年はマタイの福音書を毎日曜日連続して読んでいますが,これが分かるためには,マタイが書かれた時代が,分かる必要があります。なにを目的として書いたかということも分かる必要があります。ある意味で少し勉強がいるということでしょうか。
 ユダヤから始まりましたキリスト教がユダヤ以外の地方に発展していった。そして当時の首都であるローマにまでキリスト教が到達しました。こういう背景をもってマタイは福音書を書いています。ユダヤ以外の人々にキリスト教が伝わっていく,違う文化の中に入っていく,そのたびごとに教会の中でごたごたが起きています。そのごたごたを頭に入れてマタイは福音書を書いているということです。
 一つの文化が他の文化に入っていく時にそれを一方的に押しつけますと必ず摩擦が起こります。それでもおもしろいことには,この摩擦や争いを通して事の本質が見えてくるということです。どちらの文化も表面に現れていることは本質ではありません。多くの人は表面に現れていることがいかにも一番大事なことのように思っています。しかしその表面に現れていることをはぎ取っていけば事の本質に到達できるのです。ユダヤの文化をはぎ取り,ローマの文化の表面をはぎ取っていくと,キリスト教がなんであるかが見えてくるのです。すなわち二つの文化の中に変わらないもの,本質と言いましょうか,そういうものが見えてくるのです。ユダヤから始まり,ギリシャやローマの文化に入りキリストが本当に伝えたいものがなんであるかがよく分かってきたのです。この点で争いや摩擦というものはとても大きな意味を持っています。
 キリストの教えというのは,どの文化にも適応できるものでありますし,その文化の服装を身にまとっていても,キリスト教の本質はまったく変わることがありません。ヨーロッパでキリスト教と言われている,日本でキリスト教と言われている,その文化の服装は違います。でもその中にあるものは同じなのです。その中にあるものに,私たちは気づかないといけません。
 この視点から今日の福音書を読んでみましょう。「私に主よ主よと言う者皆が天の国に入る訳ではない」と言われています。ユダヤ人こそ救いに入ると考える人たちに対して,そうではないと言ったのです。ローマの人もそうですよと告げています。しかし,ローマ人であるという特権を持っているから救われると考える時,また間違いを犯すのです。
 マタイはキリストの名によって悪霊を追い出すことが大切だと教えます。それは,ローマ人であってもユダヤ人であっても大事なのはキリストの名によって行うということを強調したかったからです。ローマ人もキリストの名によって,ユダヤ人もキリストの名によって,日本人もキリストの名によって悪霊を追い出すのです。私は日本で生まれ,日本で育ち,日本という文化の中に生きている。その文化の中でキリストを自分の言葉で伝えていく,この時本物になります。借り物の言葉で伝えても決して伝わりません。
 今日の福音書はまたキリストという土台の上に立っていれば倒れることはないと教えています。ローマという文化や伝統に立っていても倒れます。日本という文化や伝統にだけ立っていても倒れます。キリストとという土台に私たちは立っていないといけないのです。当時ローマの権力の傘の下にいれば安全だと考えた信者さんがいたのでしょう。権力にすり寄っていくような信仰のあり方を求めた人もいたでしょう。マタイは,彼らに,キリストによらないといけないと教えたのです。
 キリシタン時代,400年前ですが,日本に来た宣教師たちの多くはスペインとかポルトガルという国の意識を強くもって,日本に宣教にやってきました。こうして多くの面で,ヨーロッパの国という視点から逃れることができませんでした。時代の制約があったとしても,これは当時の日本の教会に大きな問題をもたらしました。

 第二の視点は,この福音を現代に当てはめて考えてみる習性です。歴史が分かるには臨場感をもって場面を想定しなさいという話を私はよくいたします。先日マニラに行きましたが,例えばマニラの司教座聖堂でミサをたてることができました。臨場感をもって考えますと,あのマニラの大聖堂で,あの椅子に,ペトロ・カスイ岐部が座って日本に渡る決心をしたと想像することです。船がないと,それでは船を作ると決意しているペトロの姿を想像できます。どんな気持ちでその所に座って彼は祈ったでしょう。こういう臨場感をもって考えますと,ペトロ・カスイ岐部が,私の目の前に生きている人としてそこにいるのです。
 自分が悪霊を追い出せないのはどうしてなんだと質問している弟子たちを考えてみましょう。自分が自分がと力んでいるこの弟子たち,うろつき回っているこの弟子たちの真ん中にキリストがいないのです。そこにいるキリストに気づかない弟子たち,こういう姿を臨場感をもって私の目の前に置いてみたら,いろいろなことが分かってきます。能力主義,自分の力,学歴社会これらのものに私たちは縛られていて身動きできないのです。上からの力によって自分が生かされているとか,イエス・キリストによって私が救われたとか,こういうことは全く分かっていません。信仰信仰と言っているけれど,その実単なる自分の独りよがりに過ぎないのです。こういう風に考えて福音を読むと生きることが見えてきます。
 マタイが信者に諭すように,私たちにも今日の福音は諭しています。自分が自分がというこの見方をやめなさい。あなたの真ん中にキリストというお方を入れなさいということを教えています。キリストに土台をしっかり置いた自分の生き方を確立していきなさいと教えています。このように今日の福音を読んでいきますと,雨が降り,川が溢れ,風が吹きその家に襲いかかっても決して倒れないのです。先日のあの津波の場面をしっかり思い起こして今日の福音の箇所をよんでみましょう。ニュージーランドで倒れた家は,手抜きの工事のため倒壊したとニュースは伝えています。その手抜きこそ私だと考えたら,福音が生きるのではないでしょうか。この私の手抜きが私を全部打ち崩してしまっているという反省をして,今日の福音書を読んでみますと,豊かな自分がどのようにして作られるのかということが分かってきます。

    ※司教様チェック済み