エキュメニカルミサ説教

2011年1月23日
於:桜町教会

 本日の,第1第2第3の書簡というのは非常におもしろいことを見せてくれています。第1の書簡は「異邦人のガリラヤは栄光を受ける」という言葉で結んでいます。すなわちイザヤは,新しく異邦人の地に光が注がれる,それはメシア,救いの時代であり,皮肉にもイスラエルが頑なになったからだということを話しています。今日の福音書の朗読では,ヨハネが捕らえられたと聞き,イエスは「ガリラヤに退かれた」という言葉を使っています。すなわちこの二つの箇所ともイスラエルの民が内部で分裂した時,キリストの教えが異邦人に向けられたという皮肉を語っています。別な言葉で言えば,内の事ばかりに終始して挙げ句の果ては内部で抗争している時に,神様は新しい民,異邦の民に働いていかれるということです。
 この具体的な例を第二の朗読では,コリントの教会への書簡で説明しています。パウロはコリントの教会に手紙を書いていますが,この手紙は,いくつかの手紙の往復があった後に書かれています。コリントの教会で,いつの間にか内部で争いがあったということを聞いて書いているのがこの手紙です。ある人はパウロ派と称してパウロに心酔している人たちがいる。ある人はアポロ派と呼ばれて,アポロはコリントの教会の中心人物でしたので,アポロ派だとアポロに心酔している人々がいてパウロ派と互いに教会の中で争っていました。これに加えて,ペトロ派と自称する人々がいました。たぶんエルサレムから来たユダヤ人の信者のことだったでしょう。それぞれが教会のあり方ということでもめていました。自分を絶対に正しいと主張して,こうして内部が分裂するという現象が起こりました。さらに内部の争いが嫌になって,私はキリストだけに信じる,教会の事は一切離れてしまいますという人たちがでてきます。こうしてバラバラになっていって,それぞれの思惑で動いていくことで教会の一致が崩れていくという結果になっていました。これを,パウロは残念だと言っていて,後から私は鞭を持ってこないといけないのかという表現さえ使っています。あなた方の内部の分裂は許せないと強く主張しています。イザヤは,神は頑ななこの民を捨て新しい民に向かうと,非常に皮肉っぽく語っています。
 教会の歴史には多分にこういう面が沢山あったと思います。新しい民に拡がっていく,その時は内部に分裂があった時でもあるということです。だからパウロは「私は誰にも洗礼を授けませんでした。洗礼を授けるのではなく,福音を告げ知らせるために遣わされた」と言明します。私は自分の党派なんか作りませんということを主張しています。夢にもそんなことは考えず,大切なのは福音を告げることと言い切っています。「キリストの十字架をむなしくしないためです」という説明をパウロは加えています。愚かに見える十字架,これを人間のかしましい知恵であれこれと議論して相争ってはいけないということです。愚かにならないといけないということをパウロは強調しているのです。
 教会が一つになるためには,キリストの十字架の死,これを信じて人々が集まることです。教会の分裂というのは多くの場合,言葉を自分なりに解釈してそれを絶対視するという傾向から始まっています。聖書の解釈が違うというところから無数に分裂していったプロテスタントの教会を私達は目の当たりにしています。更にその原因をもっと突き詰めていきますと,何か動かない旧態然としたカトリック教会の姿に失望して起こっています。例えば,16世紀の宗教改革はこんなところから起こっています。すなわち,教会の内部のスキャンダルとか分裂というのが新しい分裂を起こしていったということにも目を向けないといけません。
 しかし,聖書は非常に皮肉です。この分裂があるところから神は新しい民を選んで新しい教会を作っていったという皮肉な事実を語っています。この新しい民というのは,常に「キリストの十字架をむなしくしない」という生き方に徹する人たちのことです。主キリストが私達のために十字架につけられて亡くなったこと,それを通して人々に救いを渡して下さったこと,これが教会の信条中,一番大事な基盤となっています。自分が自分がと主張するがそうではありません。十字架の前に愚かにならないといけない。頭を深くたれる謙虚さが教会に一致を生み出してきます。パウロでもない,ペトロでもない,アポロでもない,キリストこそが私の救い主という信仰を持った時に初めて一致というものが生まれてくる,あるいは神の民が作られていく。今日の3つの朗読は,非常に深い教会の一致という問題を語ってくれています。

    ※司教様チェック済み