祈祷一致週間説教
2011年1月20日
於:桜町教会
「福音には神の義が啓示されています。それは始めから終わりまで,信仰を通して実現されます。」今日のパウロの手紙に書かれています。別な言葉でも「神の義によって人は救われる。」という言葉がありますので,本日「神の義」と「人の義」ということを御一緒に考察してみましょう。
正義と申しますと,これだけのものをあげたらこれだけのものをもらうという感覚があります。英語でいう「give and take」,世に「交換正義」と呼ばれているもので,同等の権利と義務を課す,こういう種類のものをすぐに想像いたします。裁判をする場合でしたら,殆どはこれによって判決があります。人は自分が約束したこととか行ったことについては,どうしても責任を負わなければなりません。貸したり借りたりすることの中で,事の白黒を決めていくのが裁判です。裁判官は法律にそって公平な結論を出します。基本となるのは,公平さと平等で,そこで言われる正義は,交換正義,「give and take」のそれです。
しかし,聖書をひもとくと,私達が考えている正義とはずいぶん異なっているということに気づきます。三省堂が出している聖書事典を開いてきますと,まず,「正義」という言葉よりは「義」という言葉で索引がなされています。この「義」というのを二つに分けています。「神の義」と「人の義」の二つです。聖書の「義」というのは,人と人との関係の正義,交換正義ということではなくて,神様と人との関係における正義であるということを説明しています。これだけのものをもらったからこれだけのものを返す等という正義は神様の前には成り立たない。人間はもらうばかりで神様は与えるばかりです。しかし,与えるばかりの神様ともらうだけの人との間にも正義があるのだと聖書が話しています。ある意味では,一方的な正義であり,神様はこれだけのものを与えるからこれだけのものを守れという正義なのです。神様というのは,正しいお方であって,正義そのものなのです。決して不正ということはありません。誰にも借りがありませんし,不正など決してあり得ない,これが神様です。だから,厳密な意味で神様の義ということを考えたら,人間はもうお手上げでどうしようもないと考えたらいいでしょう。しかし,聖書はこの「神の義」を,あわれみの神の義という形で登場させてくれています。とても幸いなことだと思います。この神のあわれみと神の義ということが裏表になっているからです。
では,聖書の中で「人の義」というのをどういう風に考えているでしょう。まず,人は弱く悲しい存在であるというのが大前提です。原罪という罪によっておかされて,とても悲しい存在であるということです。だから,人間は胸を張って肩をいからせて,神に「これを貸せ」とか「あれをくれ」などと決して言えない存在なのです。言えるとしたら「神様お願いです。何とかして下さい」ということで,これが人間の義なのです。シモーヌ・ヴェイユの言葉を借りますと,「地上で足をばたつかせて,ひねくれてわめいているバッタだ」という表現を使っています。人間というのは自分で自分をどうして良いかわからなくなっている。だから神様の前では,始めから人の正義なんてありません。神様に同情してもらって,初めて人の義というのが分かってきます。
旧約聖書では,神様が与える掟,律法を守る人が義人と呼ばれています。だから,律法を守る人というのは敬虔な人であって,立派な先生「ラビ」と呼ばれる。律法を守る人の善行に神様が与えてくれるのは神の義であり,人の義というのは,神様が与えてくれる神の義に対して自分が応えていく。神様がこれをしなさいということをやっていくのが人の義なのだという風に解釈していました。神様は,これだけの事を人がすれば,これだけの事をあげましょうとおっしゃいます。ところが時が経つにつれて,人間はこの律法の意味が分からなくなります。掟を字義通りに守っていれば,義人になる,正しい人になると思い込んでしまうのでした。
イエスの時代になり,イエスはこれらの人々に対して厳しく臨みます。「あなた方は掟を形通りに守っている。でも本当の意味での掟,神の義というのが分からないのだ」と。新約聖書の全ての箇所でこれが強調されて,律法さえ守っていればいいと考えるこれらの人を,イエスは強く非難します。形だけ掟を遵守していても,なんの意味もない,それは偽善的な行為に過ぎない。こうして福音書の中では,何度となく律法論争というのが繰り返されます。イエスは律法を否定したのではなく,律法の本当の意味が分からないで,形だけ守っている人を厳しく責めました。この人たちは不義の人であると考えたからです。
新約聖書では,マタイの5章に山上の垂訓というのがあります。全体の構文をみると色々な事が分かってきます。まず有名な真福八端があって,「貧しい人は幸い」である云々という文があります。その次に「地の塩・世の光」という箇所が出てきて,それから「私は律法や預言者の教えを廃止するためではなく,成就するために来た」という大前提を置いて,それから話を始めます。お帰りになって,マタイの5章6章7章というのをまとめて読んでみて下さればお分かりになります。イエスは「律法を成就する」という意味を5章の21節から7章まで詳しく述べていきます。律法を成就するとはどういうことなのか,掟を守るとはどういうことなのかという説明のことです。最後に,6章・7章で祈りとか断食ということがあって,最後のしめくくりに,大切なのは「言葉より行いである」ということばで,一連の話が終わることになります。
私は,5章の21節から48節までを使って,神の義・人の義ということを説明することにします。
5章の21節から48節まで,6つの例題が載せられています。そのいずれにも共通した文型があります。すなわち,「あなた方は聞いているとおり,昔の人々はこうであった」に始まり,次に「しかし,私はこう言う」ということです。すなわち"昔から言われた律法はこうである。こういう風に解釈していたが,私は別にこんな風に解釈します"というのが,この構文です。例えば,昔の人は「殺してはいけない,人を殺したものは裁きを受ける」とい言っていた。しかし,私はあなた方に言うと反論するのです。「殺すな」という掟を字義的に考えたら,凶器で,ナイフで又は鉄砲で,ピストルで人を殺さなければ良いのだろうということになります。結果的に,私は義人だと自負しています。これに対してイエスは,本当にそうですか,あなたは人を殺してませんかという問題提起をします。あなたは,言葉で,仕草で,動作で,人を殺してませんかとさらにそれを掘り下げて考えさせます。殺してはいけないというのは,単に人を傷つけたとかそんなこと以上の問題があるということです。だから21節以降に出てくる例えがその一番良い例えです。「あなたを訴えて下着を取ろうとするものには上着をも取らせなさい。誰かが無理に1マイルの道を歩かせようとするならば,一緒に2マイル歩きなさい。求める者には与えなさい。」ただ,「殺していない,私は義人だ」というのではなくて,あなたにとって大事なのは,「1マイル一緒に歩いてくれないか。私は寂しくて仕方がないんだ」と,とぼとぼと歩く人に,「いや,君と一緒に2マイル,3マイル歩いてみようね」というのが,殺すなということだと説明するのです。在宅の年寄りから「あと5分一緒にいてください」と言われた時に,「私は忙しいから5分でいなくなりますよ」というのではなくて,「じゃ10分いましょうね。私は仕事があるから10分しかおれないけどゴメンね」と言うことです。これが殺すなという意味なのです。上着を取ろうとする者には下着をあげなさいということには,これだけのことを頼むからこれだけの事をしてあげるという見方と全く違っています。上着をとろうとする者に対して,たぶん下の物もいるんだろうなあと考えることができることです。寒い時だから下着ともう一つ暖かい何かを加えてみようかなと考える,これが殺すなという意味なのだと考えることです。イエスが考える「殺すな」というのは「愛しなさい」という意味なのだということを分かってきます。愛さないという時には,殺しているのだということです。
イエスの考えでは,律法の基本というのは,神を愛し,人を愛するということ,これにつきるということです。愛の業を行う事が,律法の完成なのだということです。これがマタイ5章,6章,7章を貫いている一つの考え方です。イエスの教えは,とことんまで人に尽くす生き方,これを命じています。「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」,これが神の義なのです。人は自分の力ではとうてい神の義に到達することはできません。自分を義人とすることもできない。神様が私を義として下さるのです。神の義によって私が救われるというのは,こういう意味なのです。神のあわれみによって神の教えを守ることができるのです。私達は神と対等に向かい合うことはできませんし,人は自分の力だけで神を愛することはできません。また,神様の愛の力が無くて,私は人とも対等に向き合うことはできない。
福音には神の義が啓示されていますが,それは始めから終わりまで信仰を通して実現されるとも述べています。私達の主イエス・キリストは,十字架で亡くなった。なんて愚かな生き方であり,なんて愚かな死に方でしょう。しかし,このことを通して初めて私が義とされたということ,これが私達の信仰の基本です。私達は,神の恵みによって私が正しい道を歩むことができることを願い,祈り求めることから人生設計を考えないといけません。
今日は理屈っぽい話をいたしました。神の義によって,私は救われる,私の義というのは,神の義によって与えられるのであり,それは愛するということによって実現されるものです。今日の朗読は,こんな事を私達に考えさせてくれています。私達は祈祷一致週間を過ごしています。私達はお互い深い罪の絆から解放されて,神のあわれみによって救われるこの信仰に生き,この真理はどんな教会にも通じている共通点なのです。
※司教様チェック済み