教区民のつどい香川大会ミサ説教
2010年10月31日
於:桜町教会
今日の集いの趣旨を説明しながら,説教に代えたいと思います。
まず最初に今日の発表を聞いて,前向きだということを感じました。いろいろ難しさがあるけれど進んでいきましょう,小さいけれどがんばっていきましょうというのがテーマだったと思います。その意味では非常にうれしいなと思いました。だめだ,だめだと言っていない。何かができる,やってみようというところまで来た,良い出発点が一つできたと思いました。子供たちも若者たちも,音楽にしても劇にしても,本当に希望を持たせてくれたのではないでしょうか。
30年前,日本ではNICE(ナイス)という集まりが開かれました。NICEといわれるとさっぱり分かりませんが,「日本宣教司牧推進会議」ということです。それは,第二バチカン公会議の基本的な理念,「『神の民』すなわち司教,司祭,修道者,信徒が一つになって一つの教会を作っていく」という考えに基づいています。当時,日本の教会は転機にさしかかっていて,外国人の司祭たちから日本人の司祭たちへと日本の教会が自立しないといけないという時期にさしかかっていました。当時の司教たちが指導して「NICE」というのを2回行いました。この「NICE」の基本的な考え方は,今まで他人に頼っていた教会から自立した教会,第二バチカン公会議がいう中央主導の教会ではなくて,地方の教会が自ら作っていく教会を目指すということです。この理念をもとに作られたのが「NICE」です。人がやってくれるだろうという体質から,自らが自分の教会を作って考えていこうということです。神父さんに,任せっきりの教会から,自分たちが一緒に考えてどんな教会を作るかというところに焦点を絞ろうとしたのです。これが30年前の「NICE」です。不幸なことにそれから後,その「NICE」の考え方が浸透しなかったか,あるいは余り必要性を感じなかったのか,実施されないまま年月が去っていきました。現在,ぎりぎりまで追い詰められて,そんなことを前に決めたなということに気づいたのです。気づくのが遅かったけれど,気づかなかったよりはずいぶん良いと思います。今,司教団は,もう一度その精神を日本教会の基本的な方針として打ち出そうというところに来ています。
それに沿いまして,高松教区も同じ線で考えていくと決めています。すなわち,今までのように任せっきりで,人がいなくなったらよそからつれてきてその人たちにやってもらおうなどというものの見方ではなく,とにかく今この地方の教会が自分たちで考えていこうじゃないかということが,「NICE」の精神なのです。今,やっとここまでこの教区も来ようとしています。他の教区に比べてこの考え方が遅かったと,客観的に見たらそう言えると思います。それでもかまわない。今,始まっているという風に見ることができます。すなわち,安易に他所から呼んできて,他者からお金をもらってきて,自分たちの教会を形だけ守っていこうなどという見方はしない。形は悪いかもしれない。人はいないかもしれない。難しいかもしれない。でも良いじゃないか,自分たちで今どんな風にしていくのか考えようじゃないか。これが,今,高松教区が出そうとしている「一致と再生」ということの,基本概念と言ってもいいと思います。
そして,この「NICE」の精神に従って三つの側面を打ち出しました。私が出しました教書を少し読んで下さったら分かると思うのです。教会には三つの側面がある。一つでも欠けたら教会でないという点です。その基本というのが,「信仰と祈りある教会」です。信仰はお恵みですが,すぐに来るものとも言えません。やはり,実際に自分が体験したことを祈りにすることが大切です。そのためにも,主日のミサの大切さということが何度も言われています。信仰を深めるために,みことばを味わう必要もあるでしょう。どうすれば,もう少し信仰が深まるのでしょうか。聖書の勉強をしているとの発表が多くありましたが,その聖書の勉強をどうすればもっと深めていけるか,もっと心の琴線に触れる聖書の味わいが生まれるか,この辺から始めてみればいかがでしょう。典礼も同じです。ただミサに与っていればいいのではなくて,このミサを通して,本当に自分の心の琴線に触れて,自分を下から生かすようなミサのあり方というのを,もう一度小教区単位で考えてみないといけません。人任せではなくて,どうすればいいのかということを一人一人が考えてみることです。この「信仰と祈りある教会」これが基本ですし,これが教会の柱となります。
もう一本の柱というのは「共同体」です。兄弟の交わり,キリストをいただく人の交わりです。私達は博愛の事業をしている訳でもないし,単なるクラブ活動でもありません。好きなものが集まって,そして良かった良かったと言っているのではありません。キリストにおいて信仰によって結ばれた,キリストの体によって結ばれた,本当の教会です。この教会の交わりというのは,とても大事にしないといけません。どうやればできるのか,教会に属する私達ひとりひとりに課せられた課題です。ただ親しくて,気があっていれば良いというそんな問題ではありません。信仰によって共に交わる,これがとても大事な点です。
信仰と共同体に生かされたこの人たちは「現代社会に挑戦する」のです。後ろ姿を見ただけで,この人は信仰を生きているというのが分かると言える生き方が求められます。現代社会で,何が何でも「キリストがキリストがキリストが」なんて言う必要は毛頭ありません。でも自分の職場で,キリストの生き方を見習って,私達はその職場で生きるのです。これは大事な点ではないでしょうか。何が何でも引っ張り込む必要は全然ありませんし,何が何でも自分が思うように相手が考えるよう押しつけていく必要は毛頭ありません。でも,私達がいるところ,そこはキリストの香りがしている。これが宣教の基本になります。そしてこの中で,一つ発想法の転換というのがいると思うのです。時代が変わっている,社会も変わっている・・・旧態然と今までと同じ方式ではなく今「新しい福音宣教」ということが言われています。発想法の転換です。いろんなことを考えていかないといけません。
いろんな形で,いろんな方法で人々の間に入っていける,それを自分たちの共同体で考えていくのです。先ほどの坂出教会の「ちびっ子集まれ」,このアイデア一つ持った,ここから何かがはじまっているのです。高山右近列福運動の中で,右近という人を通して人々が集まってくる小豆島教会の例があります。四国のおもてなしの心でもって巡礼団を迎えることで,共同体が生まれてきます。このようにして何かが生まれてくる,下から何かが脈々と泉のようにわき出してくる,これが大事だということです。だから,高松教区が求めているものはこういうことでして,本日の教区民のつどいはスタート点に立ったということです。
来年は教区大会があります。教区大会で,四県合わせて高松教区はこの方針でやりますという所まで行きたい。今,出発点に立ちました。今から一年間,私が今話したような視点で,この三つの側面をもう少し深めて掘り下げて,知恵を出し合って,自分たちの教会はこれをここを・・・というところをきちっと出してくる。こういう歩みをしていって下さったら,とてもうれしいと思います。今日はとてもいい一日でした。神に感謝しながらミサを続けていきたいと思います。
※司教様チェック済み