188福者のミサ説教

2010年7月1日
於:桜町教会

  遺物がありますので,どのような形でこの遺物が残っているかという話をしましょう。
 1614年の大迫害の始まる前の時代は,割合に遺物を保つことができました。例えば日本26聖人。実を言いますと,日本26聖人は西坂の丘で磔になり殺されて約半年間そのまま十字架につけられて残ったのです。だから,鳥が全部ついばんでしまって骨だけが残りました。秀吉の気持ちが少し落ち着いた時に,フランシスコ会がもらって,マニラに持って行ったという経緯があります。日本26聖人の骨,少なくとも何人かの神父さんの骨はマニラに残りました。キリシタン時代の早い時期,例えば1590年代に中国毛利元就の時,殉教があります。熊谷豊前守とか山口のダミアンとかという殉教は早い時期に亡くなっていて,その遺体は長崎に持って行かれました。長崎には,今,春徳寺といいますが,トドス・オス・サントス教会があり,そこの御聖堂の下に殉教者の遺体を葬りました。同じように1603年と6年,八代に殉教がありました。八代の殉教者の遺体は有馬に運ばれ,有馬のセミナリオの御聖堂の下に葬りました。禁教令が出た時,それをトドス・オス・サントス教会に持って行き,更に1614年マカオに送りました。1614年に有馬に殉教がありますが,有名なマリア・マグダレーナと10歳のディエゴの殉教があります。殉教で亡くなった時,信者たちは矢来の中に入っていって全部奪い取ってしまったのです。セルケイラ司教様は有馬の信者たちに手紙を送って,殉教者の体を取った人はみんな持って来なさいという命令を出します。こうして,その遺骨は全部長崎に持って行かれ,やはりトドス・オス・サントス教会に葬られました。
 1614年11月宣教師たちは全員,マカオかマニラに追放されていきます。その時にトドス・オス・サントス教会にあった殉教者の遺骨を宣教師たちはマカオに持って行きました。マカオのカテドラルには名前をちゃんと書いて残しておきました。日本の殉教者について,例えば林田マグダレーナとか林田ディエゴとか名前を書いて残しました。それから,ドミニコ会関係で鹿児島の川内の税所七右衛門の遺体はドミニコ会が長崎に持って行き,サン・ドミンゴの教会に葬りました。ひとつだけ私がよく分からないのは,小倉の殉教者の加賀山隼人のことです。加賀山隼人は1619年に亡くなっていて,1614年遺骨がマカオに持って行かれた訳ではありません。どういう経緯でマカオまで行ったのかはっきり知りませんが,想像すると,小倉近辺で働いていたのは188名の殉教者の一人中浦ジュリアン神父で,ジュリアン神父と加賀山隼人はとても親しい仲でした。おそらく,小倉の信者が加賀山隼人の遺体を中浦ジュリアンに任せて,何かのつてで長崎にまで運び,ポルトガル船に乗せたのではないでしょうか。他の殉教者たちは皆焼かれてしまい,灰になって,その灰は全部長崎湾とか色々なところに捨てられてしまうということで,遺骨は残りませんでした。だから,他の殉教者の遺骨は見つけることが出来ません。

 1800年ごろベトナムにも殉教者が出ます。ベトナムの殉教者の遺骨もマカオに持ってこられて,日本の殉教者の隣に安置されました。運悪く,1850年代でしたか(注.はっきりした年を調べていない),マカオで大火災が起こり,サン・パウロ教会が全部焼け落ちてしまいます。今マカオに行かれたらおわかりだと思いますが,正面の壁面だけ残っています。あの壁面は日本の職人が作った壁面です。日本人が作ったところだけが残って中国人が作った他の場所は全部その時に焼け落ちてしまいました。焼け落ちてしまった時に,ベトナム人の殉教者と日本人の殉教者の骨が全部一緒になってしまったのです。一人一人名前を書いて箱に入れてあったのが,箱も名前も焼けて,更に骨も焼けてしまったのです。火事が終わって,その骨は全部拾い集めて,マカオの司教館の一隅に置いていました。これを見て良くないと考えたのが,サレジオ会のアクアビバというイタリア人の神父でして,司教様にお願いして,その骨をきちんと保存するという条件で,サレジオ会のフランシスコ・ザビエル教会の中に部屋を作りきちんと保存しました。アクアビバ神父は生前日本を訪れ,私は長崎まで案内しました。

 そのサレジオ会のフランシスコ・ザビエル教会には,フランシスコ・ザビエルの肘の骨があります。フランシスコ・ザビエルが亡くなった時,体が腐っていないことを発見して上川島からマラッカにそれが持ってこられます。一年間の後まだ腐ってないということを発見し,マラッカからゴアに運ばれました。だから,彼の遺体は現在ゴアにあります。ところが,ヨーロッパではフランシスコ・ザビエルの信心が非常に高く,その望みに応えるために,腕を切ってローマに送ることになりました。それがローマのジェズ教会の祭壇の上に残っている骨です。日本は迫害があり,信者を助けるということを目的として,ザビエルの肘の骨を日本に送り,迫害に苦しむ日本の信者を助け励まそう考えました。日本に送られますが,日本はそれどころの騒ぎではなく,ザビエルの骨そのものがなくなる恐れがあるということで,宣教師はそれをマカオに戻してしまいました。その骨が,日本の殉教者の骨と一緒にザビエル教会に残されています。

 中国は香港返還を実現し,それからさらにマカオをも返還させます。その中でマカオの大司教は中国に返還される時に,骨とか教会とか信仰とかそういったものがどうなるかという心配を持っていました。日本からは何度もその骨を日本に持ってくることができないかというお願いをしていた関係で,中国に返還という時期にマカオの大司教はその骨を日本に送ることを決めました。その骨が,今は長崎の26聖人記念館の「瞑想の間」の上の棚に置かれています。見ることはできませんが,箱の中にきちんと整理されて置かれています。私は,列福委員会の委員長ということを利用し,規則で殉教者の骨とか聖人の骨は取り出す時には司教でないといけないという規則があるのを利用して,高松教区のために貰いました。今度の日曜日は阿南教会で結城了雪祭があり,結城了雪の教会ですので,そこに一つ残します。それからカテドラルのためにもう一つと考えて,長崎の26聖人記念館にある箱を取り出し,初めてなのでどうやっていいかわからなかったので,小さなナイフで骨を切り,それを小箱に入れて持って来ました。ただ,遺物にはいつも証明書が必要ですが,それも四国の2つの教会に掲示します。この骨は成人の男性の骨だということはDNAで分かっています。その男性が誰かはたくさんいますので分からない。ベトナム人の殉教者の骨かもしれない。そのへんがよく分かりませんが,成人の男性の骨なので,考えられるとしたら,八代の三人の男性,有馬の殉教者の三人の男性,あるいは加賀山隼人,あるいは山口の熊谷豊前守,盲目のダミアン,その辺が思い浮かびます。誰か分かりませんが,これらの可能性は十分にあります。

 遺物を見ながら,遺物に触れながら,脈々と400年間つながっている信仰を考えてみてはいかがでしょう。私たちは,決して新しい教会の信者ではないのです。
 時を越えて,イエスというお方の記憶を共有して,今ここにいるのです。

    ※司教様チェック済み
広報委員会注(マカオの大火災は1835年に起こったようです。http://www.macauguide.jp/stpaul.php