三本松ルルド祭ミサ説教
2010年5月16日
於:三本松教会
今日はラップ神父から説教をしてもらおうと思っていましたが,うまくいきませんでしたので,準備無しで来ました。以前にした話とマリア様の話をドッキングさせながら,私の話をしていきたいと思います。
まず,ルカの福音書に出てくるピラトとイエスの対話を考えてみましょう。ピラトがイエス様に向かって「おまえがユダヤ人の王なのか」という質問をいたします。どうして,ピラトはこの質問をしたのでしょう。それは民の長老とか祭司長とか律法学者など周りの人が,「イエスのことを訴えたいから聞け」と言うのでピラトは聞いています。「あなたはユダヤ人の王なのか」という問いにイエス様は何と答えるでしょう。「ユダヤ人の王なのかと他の人が言っているが本当にそうなのか」という質問をピラトがすることに対して,イエスはこういう風に答えます。「あなたが言っていることだ」。すなわち,ピラトは自分がそう思っているわけではなくて,他の人,周りが,がやがや言って,自分を追い込むので質問をしている。イエス様は「あなたが言っていることをあなたの言葉で言ってみなさい。私に言わせないで,自分が考えていることをみんなに言いなさい」という答え方をしているのです。あなたがそういう風に聞いているのだったら,あなたがそれを確かめなさいということです。それを,どうして私に言わせるのですかと,逆に質問しています。結局は,あなたが考えてくださいということです。これに対して,人々はピラトに裁きを下すように要求します。ますますエスカレートしていく群衆に,ピラトはもうどうして良いか分からなくなる。この時点でもイエスは沈黙を守ります。一切何も言いません。
ピラトは,自分の責任を避けるために,今度はヘロデの所にイエスを送ります。そしてヘロデに質問させます。イエスは黙って何も言わない。ヘロデは,仕方がないので,またピラトのところに戻します。こんなやっかいな質問に関わりたくないからです。ピラトは,せめてむち打ちにでもすれば何とか場が収まるだろうか,イエスが口を開くだろうかと考えます。ところが,むち打ちをすればするほど,群衆は興奮して「殺せ,殺せ」と叫ぶようになってしまいます。
こうやってみますと,ピラトはイエスをなんとかして助けようとしていることは確かです。なんとか自分の体面も保ち,ぎりぎりまで追い込められたくないという気持ちがあったでしょう。結局は,ピラトはイエスのことを何もできない,群衆のことについても何もできない。仕方がない,だからあきらめて,投げ出してしまう。好きなようにしろという言葉で終わってしまいます。
以上から,ピラトのことを少し考えてみましょう。それから,マリア様のことを考えてみましょう。ピラトは善意があっていい人だと思います。なんとかイエスを助けようともしています。ところが,群衆を,周りにいる人を恐れている。周りをものすごく気にしている,こういう人物像が浮かび上がって参ります。自分がしなければならないことに対して,とてもびくびくしている。非常に小心で周りを気にして,みんなをなんとか助けて,みんなにいい顔をしたいと思っている,こういう人物でしょうか。自分が正しいと思うことをなかなかできない。余りにも周りに気を配りすぎているからです。私たちはどうでしょうか。特に日本人の場合に,ピラトと同じ部類の人間であるということを素直に認めたらいいのかもしれません。ただ最悪のこととして言えますのは,ピラトのこういう煮えきれない態度が,イエスを死に追いやったということです。考えてみますと,私たちも煮えきれない,結論を出せない,そう言う態度を示しながら生きることで,人を死に追いやることがあるということ,こんなことを私たちに考えさせています。
これはよく考えていかないといけない問題を私たちに突きつけます。決断しないといけない時には,決断しないといけない。決断したことに対して,決して悔いてはいけない。実に私たちの決断が無かったところが,イエスを十字架につけたのだということ,それは大きな罪であるということを,私たちに思い起こさせています。私たちは善だと分かっていても,いざという時になったらそこから逃げて,手を汚すことを避けて,そして口ばかりの正論を述べてという態度をとります。これが,イエスを十字架につけたことになるのです。こんなことを私たちに考えさせてくれるピラトとイエスの対話です。
あなたは一つも手を汚していません。最後はあきらめて,全部を好きなようにしろと言って逃げてしまうかもしれません。人のせいにしてしまいます。自らは何の責任も負いません。現代でいうアカウンタビリティは全くありません。考えてみますと,それは私たちかもしれません。大事なことを決断し,受け入れないといけない時に逃げるだけなのです。人に責任を転嫁して一切の責任をとらない。こういう私たちの姿が二重写しになって,私という人物が浮かび上がって来るのかもしれません。
ここで,マリア様のことを考えて終わります。マリア様は,自分に伝えられたことが分からなかったのです。「あなたは神の母となる」ということばの意味が分からない。あなたに子供が生まれるという意味も分からない。この子供の生涯は,あなたの心臓を剣で貫くであろうと言われてもその意味が分からない。それでも,彼女は受け入れます。「お言葉の通りに」と。私たちの曖昧な態度とは見事に正反対な,マリアという女性の偉大さが浮かび上がってこないでしょうか。起こる出来事を思い巡らしながら彼女は生きていきます。ひとつひとつの出来事は分かりません。しかし,分からないそのたびごとにその意味を思い巡らし,神様の前に頭をたれている,こんな女性,これがマリア様でした。
※司教様チェック済み