聖金曜日ミサ説教

2010年4月2日
於:番町教会

 長い式になりますので,短くお話をいたします。
 昨日最後の晩餐あるいは感謝の食卓という話をいたしました。今日はミサの第二部・秘跡という話をいたしましょう。
 ご存じの通り,ミサというのは二つの部分に分かれています。第一の部分は言葉の部で,福音と説教まであります。第二の部は秘跡の部といっています。秘跡の部において,三つの大切な要素があります。その第一は聖体ということです。「これは私のからだである」と,最後の晩餐で言われたその言葉がミサの中で述べられますが、その時からだを持ったイエス様が私たちの中に居られるのです。司祭が按手する時,聖霊が下ってここにあるパンとぶどう酒はイエスのからだと血になるのです。第一部では,みことばを黙想して、そのみことばによって私たちは活かされます。その次は,このキリストのからだを頂くことによって,私たちは神様とからだでもって全く一つになるのです。これがミサの本質を表しています。
 これをあなたは本当に信じますか。これはカトリック教会の本質に触れる質問です。これが他の教会と決定的に違うものだからです。このパンとぶどう酒の中にキリストがいるという信仰を私たちは持っています。信じられないということであれば、カトリックの信仰に入るのは,難しいと考えて良いでしょう。
 その二つ目,今日,聖金曜日に祝われる大事な点,いけにえということです。このいけにえということは神秘であり、秘跡にかかわることです。私たちが奉納するパンとぶどう酒は,キリストのからだになるということをお話ししましたが、そのキリストのからだを私たちが捧げることになります。
 奉献文を見ますと,“私たちは捧げます”という言葉が何度も使われています。どこに、誰に捧げるのでしょう。父なる神様に捧げるのです。キリストはパンとぶどう酒の形をとって,ご自分を捧げます。捧げものは祭壇で焼かれるのが旧約時代の祭式でした。“焼かれる”,“殺される”、あるいは“血が流される”、“。体が割かれる”,“皆さんのために渡される”という表現がミサの典文に使われます。キリストのからだは,あなたのために捧げられるために焼かれるのです。焼かれるためのキリスト、からだを私たちは捧げるのです。父なる神様にそれを 私たちが捧げるのです。 父なる神様は真二つに“割かれた”イエスを捧げものとして受け取ります。受け取ることを通して,それを捧げた私たち一人一人に必要な恵みを与えて下さるためです。
 ミサというのはいけにえなのです。しかも私たちが捧げるいけにえは,私たちが願いを求めている全ての人の願いを含んでいます。高松に住んでいる全ての人の願いを抱えて私たちはミサのいけにえを捧げるのです。
 私たちは皆祭司なのです。祭司とは、全ての人の願いを捧げる人のことです。私たちは全ての人の願いをここ祭壇に持参して、それを神様に捧げます。その捧げものは,キリストのからだとなり、いけにえとなって神様のもとに捧げられます。ここまで考えますと,仲間内で集まって自分たちのためにだけ捧げているミサではないということがお分かりでしょう。世界の全ての人のために捧げているミサなのです。私たちは,世界の人の苦しみをミサの中に持ってくるのです。そして,それらを祭壇の上に捧げます。キリストはその苦しみを父なる神様の所にご自分で持って行かれます。こうしてミサは全ての人の救いの源となるのです。これはカトリック教会の基本的な教えであって,プロテスタントの諸教会と徹底的に違う点となります。トレントの公会議以降,カトリックの教会が強調してやまない点,それは「ミサはいけにえである」ということです。私たちはミサの中でいけにえを捧げるのです。これを通しながら,全ての人の救いを実現するという信仰を有しています。
 こう考えますと,ミサに与らないということ,主日のミサに来ないということは,あなたの落ち度というだけではなくて,あなたがミサに来ることを通して,たくさんの人が望んでいる恵みを失うことを意味しているのです。あなたの怠りは多くの人の苦しみを増したことになります。主日のミサをこのように理解すると,どれほど主日のミサが大事かということがお分かりだと思うのです。
 このいけにえを,「新しい契約」と聖書は言っています。ミサはキリストによって制定された新しい神との交わりを意味しています。キリストのからだを頂くことで,愛の宴が始まるのです。そこで,ミサを「交わりの祭儀」というのです。 「主の日」という回勅が出されていますが,主日のミサで大切なのは交わりであることを強調しています。今の教皇様の最初の回直は「神は愛」というものでして、ミサに与ることは“互いに愛し合う”ということを誓うことだと述べています。ミサに与る度ごとに信者が互いに交わるということを理解しなければなりません。キリストのからだに結ばれた私たちは,信仰において一つになっています。
 今日は十字架のイエスというお方に注目してみましょう。この方が十字架に付けられたからこそ,私たちに救いがもたらされました。ヨハネの言葉を借りると「友のために命を捧げるほど大きな愛はない」です。イエスは奴隷に過ぎない私のために,命を捧げて下さったのです。信仰のまなざしで十字架を見つめる時,イエスに対しての深い感謝の祈りしか生まれてきません。今多くの教会が十字架を外していく傾向がありますが,これは絶対してはいけない。キリスト教の基本を表しているのは十字架だからです。

    ※司教様チェック済み