聖木曜日ミサ説教

2010年4月1日
於:桜町教会

 本日と明日と二回にわたって連続したお話をしようと思います。
 今日の第二の朗読はコリントの前書が読まれています。パウロはコリントの教会の内部で争いが絶えないというのを心配してこの手紙を送っています。その時教会の一致のためには,たくさんの議論をするのもいいが,主の晩さん,主キリストが与えて下さった,このパンを割く食事を一緒にするようにということを勧めています。それが今日読まれている第二の書簡です。しかもパウロは,これは私自身主から受けたものですという表現を使っていまして,非常に古いものであるということを私たちに分からせています。
 パウロがコリントの手紙を書いたのが,50年代だといたしましょうか。イエス様が亡くなったのが33年としますと,10年経たないうちにミサの基本的な典礼文はできあがっているといっても良いのです。聖書に書かれている言葉が古いのではなくて,当時初代教会が使っていた祈りをそのままここに載せていますので,こちらの方が古いという風に考えてもよろしいと思います。聖パウロはイエス様からも聞きましたし,ペトロからもヤコブからも聞いたことをコリントの信者に宛てて書いて,これが教会の一致のために大事なのだということを伝えています。コリントの書簡が一番古いのですが,その次がマルコの福音書でしょうか。60年代ぐらいで,それから10年経ってマタイとルカがありますので,70年代とこの4つの最後の晩餐についての記録は少しずつ違っているところがあるのですが。基本的には変わらない。すなわち,初代教会ではもうこれが定着していたと,こんな風に見ても良いと思います。
 こんなことを考えますと,私たちが唱えるミサの式文というのは,重みがあると思うのです。2000年間,人々が,信者が聞いてきた,司祭が話してきた言葉です。どこに行っても同じ言葉が伝えられたということ,これがとっても大きな意味を持っています。では初代教会ではどうしてこれを大事にして,最初からこれを教会の中心に置いたのでしょう。書簡を読みながら解説をさせて下さい。
 集会祈願です。こういう風に言っています。「慈しみ深い父なる神,あなたの一人子は死に向かわれる夜食事を共にして」と。イエス様はこの晩さんの式,過ぎ越しの食事をされています。イエス様がいまして,その周りを弟子達が囲んで,ユダヤの習慣通りに過ぎ越しの食事がなされます。過ぎ越しの食事とはどういう風にされるのでしょう。まず,パンが祝別されます。それから,食事があります。そして,ぶどう酒が祝別されると。その段階で,家父長が一番若い子供に質問するのです。「過ぎ越しの祭りってなんなのですか」と。子供が答えるのです。「その昔,神様は,私たちがエジプトで奴隷の身分であった時,私たちを救い出して,川を渡って,砂漠を渡らせてイスラエルに来ることができました。」「どうして過ぎ越しというのですか。」今日第一の書簡で読まれたところですね。どうして過ぎ越しと言われるかと「それは,天使が通って行って,鴨居に羊の血が塗られているところは通り越していく。塗られていないところの家の初子は殺される。」ということを言っています。過ぎ越しということ,鴨居に羊の血が塗ってあるということ。この血を塗られることによって,神様は過ぎ越していって,あなたを新しい自由な救いに導いて下さいます。こういう風に答えると,そうだそうだ,アーメンアーメンと一緒に食事をし,過ぎ越しの食事が終わるわけです。
 その後,「新しいいけにえ,愛の宴を教会にお入れになりました」と,集会祈願に言っています。イエス様は,弟子達とユダヤの習慣通りに過ぎ越しの食事をなさいましたが,ここに新しい意味を与えて下さいました。その新しい意味とは何でしょう。契約の血であるという表現を使っています。昔エジプトでは羊の血が塗られて,その血が塗られているところを天使達が過ぎ越していった。私たちは今キリスト様の,イエス様の血が流れるところに天使が過ぎ越していって,私たちを新しい命へと導いていってくださいます。これを新しい契約の血という風に表現しています。しかも,これを愛の宴と表現しています。すなわちイエス様によって作られたこの最後の晩餐あるいはこの食卓これは愛の宴なのです。これに一緒に与る人が,キリストの体キリストの血が捧げられることを通して一つになっていくのです。お互いが愛し合うということを誓うのです。こういう意味を表しています。
 従って,私たちが捧げるミサの中には,いけにえ,葬られる血という言葉があります。イエス様が十字架に付けられて亡くなったことを記念する。これが私たちのミサです。記念するだけではなくて,このことを通して新しい契約,私たちは新しい神様との契約を結び,新しい救いの道,新しい人として生まれ変わる道が開かれていますということを言っています。
 しかも,これを教会にお委ねになりましたと続いています。「記念として行いなさい」,こうして初代教会からこの晩餐の式,これをとても大切にしたのです。何よりもこれを中心として教会を作るということをしました。しかも,初代教会から伝えられたイエス様から伝えられた言葉を,そのまま使って大事にして変えないで使うようになりました。これを教会に委ねました。私たちはこのミサをたてながら,イエス様が十字架に付けられて亡くなったこと。あの方の血によって私が救われたこと,キリスト者として呼ばれたということは,このキリストの血によってあがなわれ,救われたものであるということ。これを感謝する。これがミサ,私たちの感謝の祭儀になっています。
 こうして考えますと,ヨハネが言う「友のために命を捨てるほどの愛はない」こうして,最後に「この晩餐の偉大な神秘に与る私たちが,キリストの愛を受け,生きる喜びに満たされますように」と言います。この真ん中にキリスト様が,しかも十字架に付けられ,私たちのために命を与えて下さった。この方によって私たちに新しい生きる喜びが与えられる。今までの古い自分から解放されていくということです。
 明日は,聖金曜日ですので,十字架の救いということをもう少し続けて話するようにいたしましょう。

    ※司教様チェック済み