枝の主日ミサ説教

2010年3月28日
於:桜町教会

 いよいよ聖週間が始まります。
 心を落ち着けて,この聖週間をゆったりと過ごす恵みをお願いいたしましょう。本日はルカの福音書に出てきますピラトとイエズスと二人の対応について,考えてみましょう。
 まず,ピラトはイエズスに「おまえがユダヤ人の王なのか」と質問いたします。この質問をいたしましたのは民の長老,祭司長,立法学者達がイエスのことを訴えたという所から始まっています。そこでピラトは,「あなたはユダヤ人の王なのか」という質問をします。「ユダヤ人の王だと他の人が言っているが,本当にそうなのか」という質問をしているわけです。ですから,ピラトは自分がそうだと思っているわけでもありませんし,質問をしたいと思っているわけでもないけれど,周りががやがや言うので質問せざるを得ないという心理状況に追い込まれているということが分かります。イエスはそれに対して,非常に冷淡に「あなたが言っていることだ」という風に答えています。「あなたがそういう風に聞いて,あなたが考えたら,あなたの言うとおりに答えたらいいじゃないですか」このぐらいの意味でしょうか。「あなたが考えて下さい。私に言わせるのではありませんよ」と,こんなくだりになっています。これに対して,人々はピラトに裁きを下すように要求します。ますますエスカレートしていく状況を見ることができます。この時点からイエスは完全に沈黙を守ります。何も言わない。ピラトは自分の責任を避けるためにヘロデの所に送って,ヘロデはまたピラトに送り返してくる。ピラトは追い込まれて自分が返事しないといけないのか,やっかいなものを背負ったと,こういう気持ちが強くあります。せめてむち打ちにすればなんとか場が収まるだろうかと考えますが,むち打ちをしたらますます群衆は興奮して,殺せ殺せというところまでいってしまいます。ピラトは何とかイエスを助けようとして努めている。何とか自分の対面を保とうと,この場をうまく収めていこうと考えますが,最後は投げ出します。好きなようにしろと。
 以上から,少しピラトを考えてみましょう。ピラトは,善意があると言っても良いですし,なんとかイエスを助けようとしています。ところが,どうも群衆を恐れている,あるいは周りを気にしている。自分がしなければいけないということに対して,びくびくしている。こういう所があります。私たちもどんなに善意があっても,周りのことに気を配りすぎて,自分が正しいと思うことができない。ピラトと同じ部類の人間であることを,素直に認めたら良いのかもしれません。ただ,最悪のこととして言えますのは,ピラトのこういう態度がイエスを死に追いやったということです。考えてみますと,私たちも煮え切らない,結論を出さない,その態度が人を死に追いやるということがあるということです。
 これは,よく考えてみないといけない問題を,私たちに突きつけています。私たちの決断というのは,実はイエス様を十字架に付けたのです。私たちが善だと分かっていても,いざという時になったらそこから逃げて,手を汚すことを避けて,そして口ばかりの正論を述べて,という態度の中でイエスを十字架に付けてしまいます。あなたは一つも手を汚しません。最後はあきらめて,好きなようにしろと,人のせいにしてしまいます。自らは何の責任も負いません。考えてみますと,私たちかもしれません。大事なことを決断し,受け入れないといけない時に逃げる。人に全部責任を転嫁する。一切の責任をとろうとしない。こういう私たちの姿が二重に映し出されて,目の前に展開して参ります。
 それならどうしてこういうことになるのでしょう。それは,人の言い分に気をつかって,そこから一歩も抜けきれないというところにあるような気がします。あのひとがこう言っている,この人がこういう風に見ている,私はどんな風に見られている。これが自分の行動の基準になっている。すなわち,他の人の思惑において,自分の決断があるかないかというところにあります。極言すれば自分を持っていない。自分がない。ここら辺にあるかと思われます。
 今日イエス様を歓迎したあの群衆は,明日はイエスを死に追いやっていきます。私たちは今,イエス様を歓迎して入場しました。行列をしました。その私はイエス様を殺すかもしれない。人を裏切るかもしれない。私たちの行動の表と裏は一緒に繋がっています。この二つをしっかりと見極めた人,これは自分がある人といっても良いと思います。いかなる困難にあっても,私はこの愛するお方を裏切ることがないという誓いを,今日の御ミサの中でしてみる必要があるかもしれません。私はふらふらと今日歓迎して,そして明日イエスを裏切る。こういうことの繰り返しをしてはいけないのだということを教えています。
 大切なのは,これら一連の出来事の中でイエス様が完全な沈黙を守ったということです。今日ちやほやする人は,明日私を死に追いやると,はっきり見ているイエス様の姿が分かります。人がどう考えるかということに終始していないで,自分が正しいと思うことを沈黙の中でじっと守り続けています。
 聖なる週間が始まりました。教会の伝統は,この聖なる週間は沈黙,静かな時を持つということを私たちに勧めています。テレビを消す勇気,無用のおしゃべりを押さえる勇気,暴飲暴食を控えること,これら外的なことに加えて,静かなひとときを毎日少し持つということを自分に課す,こんなことを教会が勧めています。その中で,イエスと同じように沈黙の中に,自分の正しさを証明して下さる神様を信じるという意味が分かってくると思われます。

    ※司教様チェック済み