日本26聖人殉教者の祝日ミサ説教
2010年2月5日
於:桜町教会
今日は,日本26聖人のお祝いですので,26聖人と日本の殉教者がどのように列福されていったかという歴史的経緯をお話ししたいと思います。
ルイス・フロイスという神父がいますが,日本史という本を書いています。まず,序文があって,その序文はカタログ,いわゆる目録しか残っておらず,原文は残っていません。それから,第一部と第二部があって,1549年フランシスコ・ザビエルが来てから,93年いわゆる文禄の役で朝鮮に秀吉が出兵していく,そこまでを書いています。第三部があったといわれ,どこにあるのかずっと分かりませんでしたが,それが見つかりまして,第三部には日本26聖人殉教録と1596年97年の出来事を書いていました。イエズス会の関係から,26聖人の文書がこういう形で残されました。
同じようにフランシスコ会でリバデーラという神父がいますが,その人がやはり日本26聖人の記録を残しています。イエズス会とフランシスコ会両方からこの殉教の記録が残されています。
では,どのように列聖されていったのでしょう。1612年にペドロ・モレホンというスペイン人の神父は,殉教者の調査をするようにという命令を受けます。この1612年の前に八代の殉教とか山口の殉教があって,もう殉教者がいたのです。それらをまとめていく作業を始めます。ところが,1614年,徳川家康によって,すべての宣教師が追放されてしまいますので,モレホン神父も他の神父も日本を離れないといけなくなってしまいます。イエズス会は,日本を離れる前に長崎で管区会議というのを開きました。その管区会議で,正副二人の神父を選んで,ローマに送って日本の教会の現状を報告するという決議をします.こうして選ばれた一人がマルコスという神父,もう一人がモレホン神父です。ポルトガル人とスペイン人です。
マルコス神父はマカオに行って,マカオからゴアを通ってゴアに行きます。モレホン神父はマニラに行ってマニラからメキシコを通ってスペインに行ってスペインからローマに行くと,二人ともローマに向かっていきます。モレホン神父と一緒にマニラに流されていく人の中に高山右近達がいるわけです。モレホン神父は高山右近の聴罪師でもありますし,高山右近の死の時に,側にいる神父がモレホン神父です。高山右近が死んでから半年間,メキシコに出発するまでの間,彼は一生懸命執筆をします。1614年までの歴史を書くのです。殉教者の資料をたくさん集めて,そしてマニラからメキシコに渡ります。メキシコで自分が書いた本を出版します。1614年と15年の日本の迫害について,それは日本語でも翻訳されています。その中で,日本の殉教者の調査を行っています。22年まで,スペイン,ローマ,スペインと約10年間ヨーロッパで生活することになります。1616年,スペインにいる間にもう一冊本を書くのです。それは1616年から19年の間の日本の殉教者です。こういう風にして殉教者の記録が残されていくことになります。
1622年にモレホン神父はもう一度東洋に帰ってきます。日本に入ろうとしますが,入ることができません。だから,タイ=シャムとか,マカオとかマニラとかをぐるぐる回っています。そして1630年,正式に日本の殉教者の列福の調査委員会の委員長になります。そうして,マニラとマカオで証人の証言集というのを集めます。だから,日本を知っている,高山右近なら高山右近を知っている人は証人になって,そしてその証言を集めていく,こういう作業をしていきます。私たちも188名の証人の作業をしましたから,どういう風にするかは分かっているつもりです。彼は1630年にマニラに渡りまして,マニラでは高山右近の証言を自分で行っています。このとき莫大な資料が集まったのです。現在,その資料の原本は残っていません。どこにいったか分かりません。でも,写しが残っているのです。書き写したコピーがイエズス会本部の文書館にそのまま残されていて,そのイタリア語への翻訳も残されています。この残された証言集と,モレホン達が集めた文書が一緒になって高山右近とか,日本26聖人とか205殉教者とかの福者の列福の資料・材料になっていきます。
モレホン達が亡くなって,日本の教会も途絶えてしまって,何のニュースも無くなっていくので,列福運動は一時停止してしまいます。200年間は一切何もされなくなります。でもモレホン神父が亡くなった後,同時代に1630年から60年ぐらいの間にやはり今までまとめた資料を本にしている人たちが出てきます。例えばイタリアでしたら,バルトリという人は,アジア・日本の歴史を非常に詳しく書いています。彼はイエズス会の文書館の館長でしたので,事情をよく分かっています。ペドロカスイ岐部について書いたのもバルトリ神父です。ポルトガル語では,ピネイロという人が日本の教会史を書きました。それは,モレホン神父達が残した資料をもとに書いているのです。特に,スペイン語ではマニラにいるパステル・コリンという人が宣教の歴史という本を書いていまして,とても大事な資料となりました。
それから後,日本については何も分からなくなります。でも,幕末になって1820年代から30年代になって日本が国を開くだろうということ,日本は非常に大事な国だということ,日本への興味,日本への関心が非常に高まってきます。特にフランスを中心として高まってきまして,もう一度モレホン達が集めた資料を見直して,日本の教会の歴史を書いていく,日本が国を開いた時にすぐ日本の事情が分かるようにしましょうという人たちが現れてきます。非常に大事な本を書いているレオン・パジェスの日本キリシタン宗門史とか,クラッセという人の日本教会史とか,トリゴーという人の日本教会史とか,1840年50年60年の間にこういう動きが出てきます。
こういう中でローマは,日本が国を開くに当たって日本ではあれほどキリスト教が盛んだったので,日本教会にどうしても力を入れて新しい教会をもう一度再生しましょう。そういう中で26聖人を列聖することになります。資料が全部そろっていたのです。でも列聖する人がいなかった。こうして1862年,日本26聖人が列聖されます。あとから,205福者の列福が1867年に行われました。でも,これらの列福,列聖は日本教会がまだなかったときに,ローマの主導で行われました。
今私は1862年まで,どういう形で列福,列聖が行われていったかをお話ししました。
※司教様チェック済み