神の母マリア祝日ミサ説教
2010年1月1日
於:桜町教会
「アノネ がんばんなくてもいいからさ具体的に動くことだね」。相田みつをの句ですが,先日あるレストランのトイレに貼ってあった句です。「がんばんなくてもいいから具体的に動くことだね。」
振り返ってみますと,がんばりすぎて疲れたかなと思うことが,たびたびあります。最近宣教ということが叫ばれていて,日本教会の現状は悲観的であり将来がないという論調がよく目につきます。識者達はいろいろ分析していますが,私にはしっくりいかない面が多々あります。ないないと言ったって,具体的に動くことがないのであれば何の説得力もないのではないかなと思われるからです。ないないづくしで,あなたは何をしようとするのでしょう。こういう視点から物事を見たら,ずいぶん変わってくるような気がします。と言いますと,今度は逆に活動だけに打ち込んで,これぞ宣教と張り切っている人たちにも出会います。例えば,日本国憲法と福音を一緒に並べまして,憲法こそ福音であるというような宣伝をする人たちに出会うのですが,ちょっと首をかしげてしまいます。確かに,憲法が福音の価値観というのを多く含んでいて,ありがたいと思いますが,それ自身が福音だと言ってしまうと政治的な色彩がついてくるということを免れないかと思われます。マザーテレサは,「私は平和の抗議集会には参加しません。平和のための祈る集会なら参加します。」とこういう言葉を述べていますが,私が共鳴する言葉です。
先日,筋ジストロフィーの患者さんの手記を目にしたことがあります。こういう病気を抱えている家族を多くの宗教の人が訪れてきたそうです。いろいろな助言とか,いろいろな話をしてくれる。でも,どれもこれもあれやこれやという宣伝臭い。どうしても,宗教を伝える人は独りよがりで迷惑であるというような文章から始まっていました。ところが,あるカトリック教会のボランティアグループで「足の会」というのが訪ねてきたそうです。その足の会の人たちは,筋ジストロフィーの患者さんが外出する時,手足となって車で送り迎えしたり,目的の場所に連れて行ってくれたりと,その教会の人たちには親しみを感じていました。そして最後には,どうしてこんな風に何も言わないで,親しく暖かく接してくれるのかということが知りたいと思ってカトリック教会を訪れて,今私は洗礼を受けたとのことです。こんなことを書いた一文でした。そう言いますと,私の父も死ぬ5日前に洗礼を受けました。いつかお話ししたことがあると思うのですが,私の兄はプロテスタントの日本キリスト教団の牧師をしています。私はカトリック教会に行って,カトリック教会の神父になりました。そういうこともあって,父は,洗礼は一切受けない,どの教会にも属さないという風に考えていたようです。でも,死を前にして,私が洗礼を受けるかと聞いたところ,「みんながアーメンなんで仕方がないかな」と,これが洗礼を受けた時の父の言葉でした。それで十分だったかなと今思います。
こうやって考えていきますと,宣教宣教と頭で言っていますが,宣教の基本というのは,人との交わりが暖かく,そしてそこから,どうしてこんな風に人に温かく接することが出来るのだろうかという疑問を起こさせる信仰者があったら,宣教があり得るということを私たちに教えてくれています。要するに信仰を持っている人が,どのように人と接するかということが,一番大きな課題なのだということです。ないないと言っていないで,どのように接するか考えてみたらいいのではないかなと思います。
昨年1年間で,以前にいました仙台教区の青年達が8人,結婚する相手の人を連れて訪ねて参りました。相手はいずれも信者ではない方々でしたが,私に会わせたいということで来たのです。私を通して、初めてカトリック教会の門をくぐったと言ってもいいと思います。こういう風に考えますと,今からどうなっていくか分かりませんが,この青年達は立派に宣教しているなと私は疑っていません。何も大上段に構えていないけれど,きちんと伝えるものを伝えているのではないでしょうか。
こういう風に考えますと,先ほどの相田みつをの言葉が腹の中にすとんと落ちてくるような気がします。あのね,がんばらなくてもいいからさ。具体的に動くことさ。実際に、具体的にあなたはどういう風に動いているのでしょう。私は、本当だなという実感をこの句に持つことができる元旦でした。大上段に構えていては,お互いが疲れてしまいます。自分が本当に納得したことは相手に伝わっていきます。納得しないことをいくら口で言っても伝わりません。心底から納得するということが、今は大事なことだと思われます。その点では,私たちには足りない点がたくさんあるのではないでしょうか。
そういう中で,今日の第一の朗読民数記でモーセに言われる言葉を読んでみましょう。「あなたたちは次のように言いなさい。どんな人と出会っても,主があなたを祝福し,あなたを守られるように」。出会ったら神様があなたを守って下さるように祝福しなさい。「主が御顔を向けてあなたを照らし,あなたに恵みを与えられるように」。人と出会ったら神様の祝福があるんだよと思いなさい。「主があなたに御顔を向けて,あなたに平安を賜るように」。人と出会ったら,神様の平和があなたに宿るように,こういう祈りをしなさい。こういう風な出会い,相手のために神の祝福を願っていくこういう出会いを繰り返すことによって、確かな宣教が生まれてきますよと教えています。何の難しいこともないと言っているのではないでしょうか。
※司教様チェック済み