平和祈念ミサ説教

2009年8月9日
於:桜町教会

 先日、広島の平和ミサで私は話をしました。ここでも同じ話をいたします。
 人が集まるとうれしいこともたくさんありますが,必ずと言っていいぐらいに人間同士のトラブルが起こって参ります。人間というのは,生まれつき争う宿命のようなものを持っていると言っても良いでしょう。それは気質の違いからくるものもあるでしょうし,考え方の違いからくるものもあるでしょう。いくら自分の性格は穏やかで言い争いはしないほうだと思っていても,いつのまにかトラブルに巻き込まれてしまう。それは仕方がないことと言っても良いでしょう。だから,なるべく人を避けて顔を合わせない方法をとったり,あるいは真っ正面からぶつかってしまったり,これらが重なって、それが傷となり私たちの気持ちをとても重くしていきます。
 個人レベルでもこうならば団体のレベルではなおさら同じことが起こる可能性が高いと思います。団体のレベルの場合は多くの場合,気質の違いというよりは,考え方の違い,あるいは理念の違いということからくることが多いようです。そしてこの場合にはもっと難しい処置を要求して来ます。それは,自分こそは正しいと信じている集団と集団との争いになるからです。信念を持っているだけに,こじれるとややこしくなります。従って,第三者を入れて裁判沙汰に持って行って解決しようなどとします。あるいは,労使交渉のような形で決着をつけようということにもなります。すなわち,法律で武装して相手と戦うことが多いのです。訴訟事件が増えてくるのが現代で,今私たちは法律で身を固めないと生きていけないという非常に難しい時代に生きています。
 これが国家間のことになると,もっと難しくなります。政治の駆け引きで国の利益を有利に守っていこうとする。この駆け引き,有利に他国との交渉を進めるためには政治力を使うでしょう。時には武力を、あるいは威嚇をちらつかせながら駆け引きをする。これが政治の常道とみんなが考えています。狐と狸の化かし合いのようなことをしていこうとします。国家間の色々な問題を解決するためには,第三機関、例えば国連のようなものを立ち上げてこれで解決しようとしますが,なかなか人間はそんな第三機関には信頼しない。国家間の争いは絶えないというのが現状となっています。個人,団体、あるいは国家のレベルでも,人間が生活しているところは,どこにでも争いがあると結論づけてもいいような悲しい現実があります。それというのも人間そのものに,人間が自分の力ではどうしようもない悲しい性〜キリスト教では原罪と呼んでいます〜を持っているからです。私たち一人一人が原罪のその傷を持っている。従って,この結果がどうしても争いという形になっているという教えを私たちは信じています。
 こう考えていきますと,世界の平和が実現するには,まず一人一人の人間が自分の罪深さから解放されて,許し合うという習性を身につける必要があります。今回の教皇様の回勅の基本は,まず私たち一人一人が自分から解放されないといけないというところから問題を提起しています。そこで,平和実現に向けて実施できる具体案を,皆さんに提案したいと思います。
 第1番目です。「祈る」こと。人間の奥底に争いを起こさなければ生きていけない性があるとするならば,これを乗り越えるには上からの力に頼るしかない。人間ができること,それは神様がして下さることを信じること。祈ること。平和の活動だけが優先されていれば,殺伐としたののしりあう平和運動になりかねません。平和を愛する人は謙虚でなければなりません。と言っても祈り三昧が良いとは決して思いません。信仰にはどうしても行いが必要だからです。祈り・活動する。この二つが調和して平和運動の実りがあるのです。現代は平和活動が先走りしています。祈ることが一緒についていかないと,それはののしりあう,また争いあうもとになる可能性が十分にあります。イエス様はまず祈って,それから活動に出かけました。また活動した後,必ず一人で山に登って祈るという習性を持っていました。私たちが平和を守るにはまず祈り、活動してまた祈る。こういう習性を身につけなさいと教えています。
 2つ目は「活動する」ということ。確かに何かをしなければいけないと感じている人〜これらの人を善意の人と呼びましょう〜これらの人はたくさんいます。この香川にも高松にもたくさんいます。ただ,何をどうすればいいかが分からず,迷っている人が大多数と言っても良いでしょう。平和の行進とか抗議のデモとか,とてもついていけないと感じている方もおられるでしょう。でも,その人たちは何かしなければいけないと感じている。私たちはその人たちに,何をどのような形ですれば良いのかを指し示していく必要があります。その人たちはその人たちなりに,種々のささやかな人との関係を結ぶ活動を自ら発見するように求めればよいのです。たくさんの小事が積み重ねられて大きな平和運動になり,平和構築に寄与できるということを話して、分かってもらえればいいのです。幸いに現在,こういうグループが日本にたくさん起こっています。とてもうれしいことです。でも信仰をもって祈って、その活動ができるようにするためには,私たちに何ができるかということを考える必要があります。悪いのは何でも反対で、反対の声のみを上げて、何もしないということでは余り良い結果を生みません。争いを起こすだけです。そしてもっと悪いのは全く無関心で,全てを人ごとのように考えていること。たぶん,これらの人々にはショック療法が必要かもしれません。神様は,そのショック療法を私たちに与えて下さっています。
 3番目です。「神様が与えて下さるショック療法」とはなんでしょう。確かに私一人が声を上げても,世界が変わることはないでしょう。今,私たちは総選挙を控えています。各党がマニフェストを掲げて自らの政策を示しています。私が選挙権を行使したって,さして日本が変わると思えないという風に考える人たちが大勢いることも確かです。同じように,今世界平和云々というより今日の生活の方が大事で,今どのように生活するか、毎日のご飯のことばかりを考えている方もたくさんいるでしょう。明日は明日で何とかなる,今は今を楽しめばいいじゃないかというものの見方の中で,平和ぼけと言いましょうか,平和であるのが当然でそれ以上のものに何も考えが及ばない。これらの人生観の前に,神様は次から次にショック療法を行って下さっています。温暖化による気候の変化でしょう。それによる災害でしょう。あるいは,無差別な何か分からない殺人事件の連続でしょう。地域的な紛争から世界的な戦争に発展している状況もあります。なんともしれない流行病が入ってきて,そして新しい病気を作り出している。こういうのを神様はショック療法として私たちに投げつけてきています。このショック療法の前に,私たちは気づくのか、気づかないのかを問われています。神様は,これらの出来事を通して真剣に平和を考えなさいと私たちに警告を発している。だから,ただ漫然とテレビを見ている限りにおいて,私たちは平和を構築をすることができないということになります。見るにつけ判じるにつけ,そこから私に何ができるかを考える習性を付けて下さい。これが平和運動を構築して参ります。
 最後です。それでも最近NPOとかNGOの活動が活発になっています。あるいは,小さな善意一杯のボランティアグループが,難しい理論抜きで人々のために尽くしています。これらの善意の人たちの運動が大きく天を、そして神様を揺り動かしてこそ,世界の平和が実現できるのだと私たちは信じています。私たちは,今日平和を祈り平和を構築するためのミサを捧げています。これこそ平和運動の第一歩と言っても良いでしょう。教皇様の回勅を今回ゆっくりお読みになって下さったらうれしいと思います。今の平和運動で一番大事なのは,貧困との闘いなのだと、彼は述べています。世界の貧困に向かって,一人一人の信者が,一人一人の善意ある人が立ち上がって,世界の全ての人に職が,食べ物が与えられる,こういう世界を構築していく,これが平和運動の根幹なのだということを語っています。

    ※司教様チェック済み