高山右近祭ミサ説教
2009年7月19日
於:小豆島教会
今日の福音を分かるために、まずマルコ6章の構成を見てみましょう。
6章はイエスが12人の弟子たちを2人ずつに分けて派遣する場面から始まっています。30節から34節の前に、洗礼者ヨハネが捕らえられ、殺される場面があります。それから今日の箇所にきて、その次には荒れ野でパンを増やす奇跡が来ています。この文脈の中で今日の聖書を理解するように致しましょう。
まず、弟子たちには宣教しなさいという言葉で勧めを与えます。マルコは宣教に困難が伴う事を弟子たちに分からせるために、洗礼者ヨハネが殺された事実を伝えます。本当のことを言えば、殺された事実を分からせるためです。イエスは弟子たちには宣教者になると言う事は多大な困難が待ち構えていることを分からせようとしているのです。ところが、洗礼者ヨハネが亡くなった後もイエスの元に戻ってくる弟子たちはことの深刻さを理解していません。自分たちの宣教はうまくいったと自慢げに話しています。ヨハネの死も意に介していない弟子たちに、イエスはこれをしなさいと命じます。そのこれとは、「あなたたちだけで人里離れた所へ行って、ゆっくり休むがよい」。「あなたたちだけで」という言葉を使っています。でも、ゆっくり読んでいきますと、イエスも今船に乗っていて弟子たちだけではありません。これはどういう意味でしょうか。私もよく分かりませんが、ある人たちはそれを「あなたたちだけで、と言ったが私がいるんだよ」ということで、船に乗っていたことの説明をしています。
あなた方だけでという言葉の中にイエスが含まれているという解釈の仕方でしょうか。
宗教者となるためには一人で行ってはいけないよ、私がいる、私と一緒に行かないといけないよと、一緒になって船に乗り祈りに行こうとされていたのでした。
教会は今年を「司祭の年」と規定しています。司祭、宣教者、彼らにとって1番大事なのは、イエスが一緒にいる事、イエスと一緒に船に乗ること、イエスと一緒に歩むこと、これが大事だと言う事を私たちに告げております。神父は自分の福音を告げてはいけません。イエスの思いを告げなくてはいけません。そうしなければ自分の言葉ばかり告げて、人の心を捕らえようと言う間違いを犯してしまいます。司祭館とか司教館にいたらお分かりでしょうけれど、毎日人に囲まれて生活するということはどんなに忍耐がいるでしょうか。イエスは人に囲まれてどんなに忍耐されたことでしょう。弟子たちにもこの忍耐を求めているのです。教会で生活すると、色々な人の訪問があったり、電話や相談があったり、次から次への行事と休む間もありません。
そういうことが次から次へとやってきて神父たちは、もういい加減にしてくれ、少しは自由にしてくれないかという気持ちになることが沢山ある訳です。今日の福音書には食事をする暇もなかったと語っています。すなわち、自分が宣教すれば人々と関わって食事をする暇もない位追い詰められて、疲れてしまう事を指します。その結果、そろそろ休ませてくれないか、とうそぶくのです。その時が正念場です。一人になりたいと思う司祭は、司祭館の自分の個室にこもって、自分のささやかな楽しみで満足するか、あるいは司祭館から出て人々と共に苦楽を分かち合うか、どちらかの選択を迫られるのです。それは司祭にとって大事な決断です。
同様に宣教しようとする人たちにとって、大切な決断となります。口先だけいいことを言っていても仕方がない、その人が人々とどのように共に生きるかということが問われているのです。
イエスは「ゆっくり休め」と言ったのに人々は押し寄せてきます。弟子たちはうんざりしています。それでも今度は人々の面倒を見なさいとイエスはおっしゃいます。先の言葉をひっくり返しているのです。それは「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」からです。自分は疲れた、だから面倒を見ないとは言いません。私たちはそういうことを言いそうです。「飼い主がいない羊のような」はイザヤの53章に「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私達は思っていた、彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私達は癒された。私たちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った」すなわちバラバラです。自分だけで歩んでいるこの有様を見てイエスは深く憐れんだと言うことです。憐れんだからこそ群衆の痛みを自ら背負って立ったという表現をしています。これは大変な仕事であり、とても出来そうにありません。
私たち司祭にイエスはあなたの仕事は大変ですよと告げています。人に囲まれ、人々共に生き、疲れ切ってしまう事がある、でも、あなたは人々の苦しみを知らなければならない、という福音を伝えています。ばらばらになって走っているこの人たちに向かって、イエスは次の項でパンを配りなさいと言います。“いや、自分たちで買いに行って、持って来ればいいでしょう”と考えがちです。これに対して、イエスは「あなた方が何か工夫して彼らにパンを配りなさい」と命じます。弟子たちはこうして少しずつ、自分が宣教者であると言う事がどんなことであるかを分かってきます。褒められ、ちやほやされて、安易な方向に流されていく宣教者の生活は、司祭の生活ではありません。「深く憐れみ」、この言葉はイエスと神に使われる言葉です。腹の底から、はらわたの底から、人の不幸に同情することを表現しています。いつも私たちは、人の痛み、苦しみに対して、腹の底からはらわたの底から共有し共に生きようとすればそこに素晴らしい宣教が出来るのです。
私も司祭生活45年になりますが、司祭の生活は気が休まる時がないというのは実感です。なかなか休む時が持てません。
イエスが今日したと同じ様に、方向を見失った人々に、パンを配り、憐れみを満たす。その時“一人でいなさい”と言われても尚任務を受ける心意気が司祭に求められているのです。
※司教様チェック済み