阿南教会結城了雪祭講話
2009年7月5日
於:阿南教会
ザビエルと四国(1)
一 ザビエルの生涯を追う
- ザビエルは1506年4月7日,ザビエル城に生。彼は6人兄弟(男3,女3)の末子。父は1512年パンプロナの戦いで戦死,文人として生きることを考え,パリ大学に18歳で遊学。6年の後人文修士号獲得,ついで法律の専攻科に進む。バルバラ学院に起居し,イグナシオと出会い,1534年モンマルトルの丘で7名の同志と共に「イエスの仲間」を結成。1537年ベニスで落ち合い,そこで司祭に叙階された。更にビチャンザに暫く留まり,ローマに赴く。1539年イグナシオは初代総長として選出され,翌年イエズス会会憲が認可された。ポルトガル国王ジョアン3世はインド派遣の宣教師を教皇に求め,イグナシオにそれが伝えられた。2名が選ばれたが,病気と国王の希望もあり,2名ともに出発できず,ピンチヒッターとしてザビエルが選ばれた。
1541年4月7日リスボン出立,モザンビクで越冬,1542年5月6日ゴア到着。1546年7月テルナテを訪問,翌年テルナテを去り,アンボイナからマラッカに立ち寄った。「12月の半ば頃ザビエルが聖母の教会で婚姻の秘跡を授けていた時,全く思いがけず友人のジョルジ・アルバレスがフランシスコがそれまでかって見たことのない黄色い顔に細長い目の3人の若者をつれて姿を見せた」。フランシスコはゴアで彼らに再会することを約束。 1548年ゴアで3名に会い,彼らはゴアのサンパウロ学院で勉強し,5月に受洗。
1549年4月14日ゴア出発,4月21日コチン,5月31日マラッカ。3週間マラッカに留まり,6月23日出発,8月15日鹿児島到着。
- 日本にて
鹿児島より送った2通の手紙がある。長い手紙と短い手紙である。そこには日本の印象が書かれていて,彼の宣教への姿勢を読み取ることができる。ザビエルは京への宣教を望んでいた。都の大学に入り,知識階級に宣教を主に行い,日本宣教の契機をつくろうとした。堺に商館を建て通商を盛んにすることによる宣教を考えた。また都に将来聖母の教会を建てることを夢見ていた。
1550年7月平戸に到着したポルトガル船を訪問,鹿児島に一旦戻って再度9月平戸に発った。平戸から都への旅を考えていた。10月終わりに出発。フェルナンデスと鹿児島のベルナルドが同伴者。ベルナルドはローマ,ポルトガルに送られた留学生第一号である。フランシスコの列福の証人となるのは日本人のベルナルドと上川島でフランシスコの最後を看取った中国人アントニオであった。ベルナルドは乾飯を袋に担ぎ,フェルナンデスは二重のナップサックにスルプリ,3,4枚のシャツと毛布を持った。フランシスコは日祷書,霊的読書の本,日本語のカテキズモ,黒の上着とシャム帽,小さな聖書,スルプリを携帯した。
平戸より船で博多まで,博多より徒歩。箱崎,香椎,青柳,宗像,赤間関,黒崎より下関に渡る。下関より長府,小月,吉田川に沿って埴生,厚狭,舟木,小郡川に沿って香川,そして山口へ。途中大雪となる。1550年11月山口到着,ザビエル一行は大内義隆に出会った。
1550年12月17日山口出立,山口より徳山,岩国まで3日の旅,岩国で堺行きの船に乗り,6,7週間の旅。宮島,川尻,三原,尾道,多度津,塩飽に宿泊。淡路島より岩屋を経て堺入港。船中で知り合った人から紹介を貰い日比谷家に宿泊。堺より京まで2日の旅。天王寺,守口,枚方,葛葉,淀,鳥羽,東寺,清水,京都。1月中旬の寒い時期であった。彼らは喜びに溢れて旅し,貰ったリンゴを空中に投げて受け取ってという遊びをしながら歩いたという。これはベルナルドの証言である。
- 京において
京では日比谷紹介の人を訪ねた。迎え入れたのは小西隆佐であった。小西家と日比谷家の交流はあり,姻戚関係でもあった。隆佐は後ほどヨアキムの名で受洗(1560年頃)。小西は翌日供をつけて彼らを坂本の知人の許に送った。4時間の雪中旅行。五条橋を渡り,清水,東山,山科,追分,大谷,そして琵琶湖に出た。大津にくだり,比叡山へ上ることを模索した。しかし贈り物なしでは受け付けてくれないことを知り,諦める。御所を訪ねるが,余りにも惨めなのに失望し,天皇とは名のみであることを理解した。将軍も京都不在であった。ザビエルは鳥羽で乗船,堺に向かい,西国に向かった。詩篇113を唱えて京を去った。
ルイス・フロイスが書いた「日本史」がある。彼は1564年来日し,京都で宣教した最初の一人である。第1章にザビエルが訪れた京都はどうであったかを短く記している。「公方様(義輝)は数人の重臣を伴って郊外に逃れていた。そこで司祭は自分をもてなしてくれることになっていた宿主に一通の紹介状を手渡したところ,その人は早速翌日,司祭に一人の従者を伴わせて,そこから18乃至20里隔たったところに住んでいる婿の家に彼を使わした」。即ちザビエルが京都に居た1551年1月中旬から下旬にかけての11日間,京都は荒廃していて,天皇は惨めな境遇にあり,将軍不在だった。この状況はいかにしてつくられたか,それは四国の歴史とも深くかかわっている。また,1560年までの京畿地方の歴史とキリシタン時代初期と深くかかわっていて,初期の教会に大きく貢献した人々がいずれも四国とかかわっていることに注目したい。
二 阿波公方が起こる経緯
- 「日本史」が語る将軍義輝が即位するまでも,即位してからも将軍家は内紛つづきであった。義輝を語る前に11代将軍義澄のことから話を始めよう。9代将軍義尚が25歳の若さで死亡したことで叔父の義視が自分の息子義稙を次期将軍に推したのに対し,義視の弟は自分の息子義澄を推した。義澄を管領の細川政元が支持して両将軍の間に争いが起きた。結局義稙は敗れて小豆島に流され,更に山口へ逃亡した。
ところが今度は将軍義澄は管領の細川政元が権力を振るうのに耐えられなくなった。細川後継者の争いで政元が息子の義之を推薦したのに対して,将軍は阿波守護の細川澄元を推した。1507年(安永四))のことであった。政元の弟高国は兄に反抗し,澄元を推した。高国は阿波守護細川家の家臣である三好元長の助けを借りて澄之を破り,将軍家も阿波守護出身であるし,管領家も四国勢に支えられていた。
ところがまたもや騒動が起こった。細川高国は四国勢を疎ましく思い,山口の大内と手を結び,将軍澄元と三好元長を追放した。阿波軍は上洛を試みるが,敗れて,高国は山口より前将軍義稙を呼び戻した。それからの10年間は高国の天下であった。義澄には二人の息子がいて(義晴,義冬),1511年義澄が死亡した際に義冬の養母は彼を義稙のもとに連れていき,義冬は義稙の養子となった。
ところがまたもや将軍家と管領の中が悪くなった。義稙は高国と不仲になり,1521(大永元)年,義稙は細川高国から逃れて堺に移り,更に淡路島を経て,徳島に移った。1523年,義冬の弟義晴が高国によって12代将軍となった。義稙は間もなくして死亡。義冬は徳島に残った。
三 阿波国においての状況
- 阿波守護は細川持隆であった。守護代として三好一族がいた。かれらは協力し阿波を地盤として本国に触手を伸ばそうとしていた。まずは堺,次いで河内,摂津,大和といったところであった。澄元を支えていたのも四国勢であった。1527年阿波守護であった細川之持は細川晴元を堺に送った。三好元長が同伴した。堺に幕府を開かせるという目論見であった。堺を拠点にして失地回復の機会をねらっていた。
阿波細川家で実力があるのは三好元長であった。彼は細川晴元とともに堺に送られて武勲をたて,その実力を内外に示した。しかしそれを妬んだ晴元は三好政長(元長の従弟)の讒言をもとに元長を殺した。しかも元長が持っていた河内7ケ所を政長に与えた。この事件が尾をひいて,四国勢も一枚岩ではなくなった。阿波三好と堺三好との間もしっくりいかず,また堺細川と阿波細川もぎくしゃくしていた。
元長には4人の優秀な息子がいた。長男は長慶,次男は阿波守護代となる義賢,三男は淡路島守護安宅(あたぎ)冬康,四男は讃岐守護代十河一存。4人の兄弟は力をあわせて京を支配する勢力となるのである。三好兄弟の後見役は父元長の弟康長であった。
四 ザビエル上京直前の京都
- 1545(天文十四)年,細川晴元(阿波)が管領として高国の後を継いだ。その時高国の息子氏綱が跡目を主張,二人の間に争いが起こった。三好長慶は細川晴元の下で阿波勢として参戦。長慶の叔父康長は阿波守護細川持隆に助けを乞い,三好3兄弟を河内に送った。阿波軍にあって実力者篠原長房も参戦。
注 篠原長房はビレラ神父時代その話を聞きに来る一人である。
1546(天文十五)年突然義晴は将軍職を11歳の息子義輝に譲った。義輝の元服加冠の式は近江守護六角定頼の仲介で執り行われた。義晴は管領細川晴元の横暴を許せなかったからである。将軍は氏綱を支持し,氏綱勢は晴元を破り,晴元は京を追われた。1547(天文十六)年将軍義輝は六角勢の助けを借りて細川晴元を打つべく進軍,氏綱がこれに加わった。三好一族は晴元の下で戦い,氏綱を攻め,これを打ち破った。ここで将軍義輝親子は京を去った。
しかし実力者にのし上がった三好長慶は父親が細川晴元,三好政長によって殺されたことを忘れてはいなかった。長慶は河内南半国守護代遊佐長教と手を結び,河内代官として旧元長所領7ケ所を支配する三好政長と反目した。細川晴元は三好政長を支持し,従って三好長慶と反目した。
混乱を乗り越えるために三好長慶は公方将軍として阿波より義冬を呼び寄せ,将軍とすること,阿波守護細川持隆を管領にすることを計画した。実際義冬は1547(天文十六)年堺に上陸したが,まだ三好勢によって完全に京は征服されておらず,再び阿波に戻らざるを得なくなる。六月三好勢は細川晴元,三好政長を破り,晴元は近江坂本に退いた。七月長慶上洛,今村慶満を京都代官に,山城方面司令官として松永久秀を据えた。
考えてみると,京兆細川家と阿波細川家の二分された争いであり,それに合わせて親子,兄弟(義澄,義稙:義晴,義冬)の争いが将軍家に繰り返された。そしてこれに合わせるように三好一族の内紛があった。
1549(天文十九)年将軍義晴,義輝親子が六角勢に支えられて上洛の機会をねらっていたが,義晴は五月死亡,義輝はその後上洛。しかし三好勢にあえなく敗れ去った。この時三好勢は摂津,丹波,河内,阿讃淡よりの軍勢は4万を数えたという。まさに三好の天下となった。
1550年(天文二十)年,11月28日三好勢と細川晴元勢は京の五条で戦い,更に三好勢は12月28日摂津より入京,義輝の居城,出城の中尾城を攻め,近江にある松本寺に火を放った。こうして義輝は近江の坂本を経て,堅田に移った。更にそこも逃れて翌年(1551)朽木谷へと逃れた。義輝は三好に和議を乞い,堅田より1552年2月22日に京に戻った。まさに1549年よりの数年間は三好長慶の天下であった。ザビエルが在京したのは,細川晴元と三好長慶が戦争をした直後であった。また将軍義輝が去った直後でもあった。この中で荒廃した京都という嘆かわしい情況を実感したのがザビエル京都訪問の実感であった。
図にすると次の通り:
1545年: 将軍義晴,義輝,細川晴元,三好長慶,政長 ――― 細川氏綱
1546年: 将軍義輝,氏綱 ――‐ 細川晴元,三好長慶,政長
1547年: 将軍義輝,氏綱,三好長慶 ――― 細川晴元,三好政長
1548年: 将軍義輝,細川晴元,三好政長 ――― 三好長慶
終わりに
- 「京の都には将軍管領が居ず,三好長慶の意に従う奉行が公事訴訟を裁き,長慶が裁許状を出し,地子銭,棟別代徴収の権を三好勢が握っていた」(出水泰生 152頁)。これを契機にして,フロイスの「日本史」を四国の歴史とにらみあわせながら読みつけていきたいと思っている。
※司教様チェック済み