188殉教者記念ミサ説教
2009年7月1日
於:桜町教会
列福の運動を30年近くをやってきまして,今日この祝日が日本で祝われることを本当に喜んでいる人たちは天国にいると思っています。
ペトロ岐部のことに出会ったのはイタリアから帰ってきて最初の年でしたので,1968年でした。岐部祭というのがあるからというので,まだ34歳の若い神父であった私は初めて岐部祭に行きました。岐部という人を知らなかったのですが,その中に分かってきて,チースリクというイエズス会の神父様が,岐部という神父が昔いたこと,彼の父は豊後水軍の岐部出身でお母は波多という姓だと伝えました。彼は大分県東国東郡岐部村に足を運んで,村役場で岐部について伺う事から始まりました。村役場の人は,「申し訳ないのですが,ここはみんな岐部です」といって,どの岐部かわかりませんでした。何回か足を運んでいるうちに,岐部増喜さんという人の家に行くと分かると聞いて,そこを訪れました。古い長槍を飾っている家で,伝統がある家と思われました。チースリク神父様が岐部神父の概要を増喜さんに伝えると彼は興味を持ち,5,6人の人を集めて岐部神父についての勉強会のようなものを始めました。更に村長さんを説得し,教会と岐部村が協力して岐部祭をすれば,という提案を投げかけ岐部祭が始まりました。そのうちに岐部ますきさんと3人の人がキリスト教に深く入ってきました。増喜さんは娘を長崎の純心高校に寮生として送り込み,家族全部が信者になりました。岐部ますきさんを通して横浜とか東京に出ている家族の人々の中にもキリスト教が入りました。そのうちにチースリク神父様が私を呼んで,「あなたもキリシタンのことをやっているし,私もだんだん年をとってきたので,そろそろ代わりに毎年講演をしてくれと頼まれました。こうして岐部祭と私が関わるようになって,岐部の生涯というのを否が応でも勉強しないといけなくなりました。今となっては非常にありがたいことですが,功労者のチースリク神父様は亡くなってしまい,列福式を見る事はありませんでした。私は岐部祭で9年ぐらい続けて講演会を持ちました。その時の講演集も残っています。そうするうちにサレジオ会の管区長になってしまったので,もはや続づける事ができなくなりました。残念な事に岐部増喜さんも列福式の1年前に亡くなってしまいました。岐部さんは私が列福の委員長になったことを知り,自分が生きている内に列福を見たいと何回も何回も言っていました。それも叶わずに亡くなられました。そしてもっと残念なことには,結城神父様も列福式の1週間前に亡くなってしました。
考えてみますと,本当に情熱をかけた人たちは,事の成就を見ないままにこの世を去っていくようです。それこそキリスト様の十字架の姿と重なりあって見えてきます。今日の福音書では,少し精神的に問題のあった人がイエス様に出会って癒される場面を語っています。豚に悪魔が入って海に落ち込んでしまうのですが,村の人々は豚が殺されてしまったので,イエスに出て行って欲しいといいます。せっかく病気が治った人の事を喜こぶのではなく,人間よりも豚の方が大事なのです。浅ましい人間の姿です。私は係わったと言っても途中からであり,それでも一番いい実りだけをもらって,委員長という肩書で列福式中一番良い座につきました。振り返ってみると実に長い間待ち望んでいた人々はそれが成就したところも見ないで亡くなっているのです。
今日こうやって話していますと,岐部増喜さんと出会った日々のことを思い出します。岐部村は海岸にあり,伊勢エビの養殖をしていました。行くたびに伊勢エビをパンと割って食べさせてくれたこと,大学生を連れて行ったら自分の家を全部開放して,20人もの若者を泊まらせてくれたこと,海で泳いだこととか,こんなことを思い出してみると,何か自分で事を成し遂げたかのように居丈高になったり,威張ったり,自分のやったことを吹聴して回ったりというのは何と浅はかな人間の姿かとつくづく思います。
初めて日本で行われるこの祝日にこうして皆さんとミサを捧げながら感無量の自分を感じています。今日のミサの中でただ何となく記念するのではなく,これを機会に殉教者が伝えるメッセージをとらえて,私たちの愛する教会をいかに造るかということをゆっくりと考えるよすがといたしましょう。
※司教様チェック済み