道後教会50周年ミサ説教
2009年6月28日
於:道後教会
50周年と言われていますが,考えてみますと,キリシタン時代を加えますと407周年記念と言っても良いでしょう。ポルトガルにエボラという町があります。そこは大学の町でもあり,きれいな小さな町です。その昔天正の4人の少年使節が泊まった宿もまだ残っています。そこにとてもいい図書館があり,キリシタン時代の日本の宣教師が書いた手紙も残されています。日本にいる神父たちが書いた書簡集が1つの本として発行されています。その書簡集の中に日本の昔の地図が載っていますが,その中に四国があり「道後」という場所が記されています。四国の中でただ一つ,教会として神父が在住していた証拠です。ヨーロッパの人に知られていた町というのは,教会のある道後ということになります。
京都に公家一条家というのがありますが,この公家一条家から将来性ある青年が豊後大分の殿様,大友宗麟のもとに送られます。その青年は田原という姓を名乗り,田原親虎として大分に行きました。その親戚,関係筋が高知中村の殿様,公家の一条兼定ということになります。この一条兼定の正室が,大友宗麟の姉妹であり,従って海を隔てて大分と四国は深くつながっていました。その間に青年の親虎はキリスト教に触れます。公家の出であるというのも問題ですし,また大友家中ではキリスト教に反対する勢力がとても強く,しかも将来は大友の娘婿になる,大友を継ぐのではないかと思われているだけに,キリスト教徒になることには四国は猛反対でした。親虎はそれでもキリスト教に接近し,そのために大友家は分裂するという状況になります。結局は,彼を中津に近い安心院(あじむ)というところの山のお城に閉じ込めてしまいます。その間に親虎は自分の友達に頼んでキリスト教の教理書を差し入れてもらい神父さんに手紙を書いて,質問しては返事をもらって勉強を続け結局洗礼を受けてしまいます。彼の洗礼を契機に,大友家は分裂していきます。その間に高知から一条兼定が長宗我部元親に追い出され,彼も豊後にやってきて洗礼を受けてしまいます。大友宗麟自身が1587年に洗礼を受けるに及んで,大分地方はキリスト教が盛んになります。大友が島津に大敗する事件が起こり,その時に四国に関係のある人が皆四国に帰っていきます。一条兼定も帰りますし田原親虎も四国に移っていきます。田原親虎は愛媛の女性と家庭を持つようになり,1587年に豊臣秀吉が禁教令を出し,キリスト教はだめだという法律が布告されます。禁教令が出て3年後,バリニャーノという有名な神父が日本にやってきて秀吉に会いますが,瀬戸内海は海賊の拠点ですので,帰りはそこを避けて高知の沖を通って帰ります。彼は愛媛に入った時に田原親虎と会っています。田原親虎はこの愛媛の地に信者として生き抜くことを誓っています。田原親虎とか一条兼定とかを調べていくと,道後と関わる事柄がわかるのではないでしょうか。
島原湾を見下ろす丘に墓地があります。その墓地に,1622年火刑に処せられた殉教者という掲示板があります。それにはペトロ・パウロ・ナバロ神父の殉教の地と書かれています。このペトロ・パウロ・ナバロという神父はこの道後教会の主任神父でした。イタリア人ですが,秀吉の禁教令で追い出されてしまい,その後,大分の西の方,鶴崎坂ノ市という町に教会を建てました。かれはそこの主任を10数年務めました。海一つを隔てている愛媛・豊後を何度も往復したのではないかと考えられます。
さらに東北地方に米沢という町があります。米沢の殉教の場面を詳しく書いた筆者はジョバンニ・バプチスタ・ポーロという神父です。彼は会津に住んでいましたが殉教の時に米沢に行き,目の前で見たことを書いたのです。今,私はその書き写しを全部持っていますので翻訳の仕事に掛かるところです。このポーロ神父は仙台に移る前は広島と四国を担当していました。10年程,四国の信者の世話をする積もりでした。教会こそなかったのですが,四国には信者たちが結構いたというのがわかります。ポーロ神父の手紙にひとつ非常におもしろい描写があります。松山城がある愛媛から宇和島に行く道は,地獄のような道だと書いています。今までいろいろな苦しい旅をしたけれど,こんな地獄のような旅をしたのは生涯にはないとさえ言っているのです。どこのことを指しているのか分かりませんが,おそらく宇和島まで行く山道のことだったのでしょう。こうして丹念に拾っていきますと,道後の教会の400年という輪郭が浮かび上がってきて,興味がそそられます。
話は変わりますが,日本では55年体制がつくられ,それまで反目していた保守勢力が一つになって現在の自由民主党を結成しました。そういう中でアメリカに対し,沖縄返還要求や安保反対のデモが起こりました。そのデモで樺美智子さんという東大の女子学生が圧殺されてしまうと云う事件が起こっています。50年代から60年代にかけては,日本はやっと戦後から立ち直って,日本が日本として歩むとの気運が高まっていきます。活力があふれてくるその時代,高松教区では鳴門教会,三本松教会,道後教会が創設されました。なんとなく外国に頼って,何となく戦後を生きるのではなく,日本人が襟を糺していきたいという時代にこれからの教会が生まれてきたことになります。50年の歳月の中で神父さん方はご苦労されたと思います。たくさんの信者さんもこの世を去って行かれたことでしょう。
でも,先ほど話した400年に比べたら50年というのは,最後の短い部分です。でもそれなりの歴史があります。50年経った今,21世紀になり,この新しい時代を目の前にして何を考えたらいいのでしょうか。皆さんと考えてみたい話題です。いつまでも伝統にしがみついて,そこから一歩も抜けきれなければ,自然に消滅していく。これでは私たちの誇りが許しません。なんでも変えていったらいいと云う事でもありません。変えてはならない何かがある。これをぴしっと守っていかなければならない。これが尊厳です。幸い私たちは非常にきれいな道後教会を持っています。四国の教会の中では,一番誇ってもいい教会ではないかと思うぐらいきれいです。50周年をただお祝いしましょうということでは足りません。今までの50年は何だったのか,今からの教会をどう考えるのか,こんな事を考えて,今自分たちは歴史のどの時点に立たされているのかを考えてみるようにしたいものです。単なるお祝い事で終わる50周年であってはいけません。400年前の資料も,もう少し丹念に掘り起こして,この教会の歴史の重みを考えていくのもよいことです。四国の中で,たったひとつの古い教会が道後教会です。そこに属されている皆さんは,誇りと自信,それから今歴史を作り上げる気概をもって下さい。
最後です。パウロはコリントの教会に宛てた手紙の中で,私たちの信仰で一番大事なことは,キリストが復活したことだと言っています。「復活した」と日本語の共同訳聖書は訳していますが,原文では「起こされた」と表現しています。主が起こされたと云う事,神様がなさったことが一番大事なことなのです。しかも起こされたという動詞は,ギリシャ語で「オリスト」という完了形なのです。英語で
Spring has come (春が来た)の has come という現在完了形は春が来て,そして春がまだあることを意味しています。「主が起こされた。復活した。」というのは,「主は復活した。そして主は復活して今ここにある」という事です。パウロがいいたいのはここなのです。教会というのは復活した主が居られるその場所です。私と共に生きているキリスト。このキリストと出会った人が,出会ったその体験を伝えること,これが宣教なのです。過去の終わった出来事ではなく,過去の50年を考えるのではなく,完了形
(has come )なのです。過去が終わって,そして今ここにある。こういう風に考えたら私たちはキリストがここの真ん中にいて,ちょうど400年前,ここにキリストとともに集まった信者と同じ信仰を持ってここにいる事を完成します。このくらいの信仰をもって今日の50周年をお祝いするようにいたしましょう。
最後になりましたが,この50年間,教会を造るところから,今まで代々働いてくださったドミニコ会の神父様方,お金も精力も全部注いでくださった修道会の神父様方,シスター方,そして最初から本当に信仰の歩みを通じてひとつの教会を残してくださった信者の方々に心から感謝申し上げて私の挨拶としたいと思います。
※司教様チェック済み