三本松ルルド祭ミサ説教
2009年5月17日
於:三本松教会
本日はキリシタン時代,マリア様に対してどのように考えていたかということをお話ししたいと思います。
ご存知のとおり,フランシスコ・ザビエルは1549年8月15日,鹿児島に到着しました。その時にこういう風に手紙を書いています。「こうして,神様は私たちをお導きくださり,1549年8月サンタ・マリアの祝日に到着したものです。」。8月15日は被昇天の聖母の祝日ですので,フランシスコ・ザビエルは日本の国を被昇天の聖母にお捧げしました。ザビエルの考え方によりますと,被昇天の聖母に日本を捧げることによって,日本の国をマリア様のご保護の下に置くと考えたのです。基本的にザビエルは「Per
Mariam ad Jesum」・マリアを通してイエスに近づいていくという物の見方をしています。だからイエス様の所にはマリア様がいつもいます。マリア様がいる日本,そこにイエス様がいるということです。イエス様が称えられる日本,そこにマリア信心があるのです。こういう事もありまして,日本の教会では被昇天の聖母に捧げられた多くの教会が建てられました。桜町の司教座聖堂も被昇天の聖母に献げられています。被昇天の聖母は日本の聖母であり,いろいろな教会を被昇天の聖母に捧げたのです。有名なのは京都の教会,それから岬の教会・司教座聖堂です。大事な教会は全部被昇天の聖母に捧げられています。
話は飛びますが,明治になりまして,プチジャン神父様が長崎の信者と出会いまして長崎の信者はお金を集め,マリア様の御像をフランスから取り寄せたことがあります。そしてそれを出来上がったばかりの大浦天主堂の階段の上に備えたのです。その聖母を日本の聖母と名付けました。だから,被昇天の聖母が日本の保護のマリア様なのか,大浦天主堂の「日本の聖母」が日本のマリア様なのか,ちょっと分かりません。どちらにしても,外国から,ヨーロッパから来た宣教師たちは日本をマリア様に捧げたということは分かっています。
フランシスコ・ザビエルが自分で持ってきたものの中にマリア様の御像,あるいは絵があります。祭壇絵,すなわち祭壇に掲げる絵ですね。その絵をいくつか持って来ています。それから,ロザリオもいくつか持って来ています。ザビエルが伊集院に薩摩の領主島津貴久を表敬訪問したとき,聖母マリアと御子イエスの絵を描いた油絵を持ってきて,彼に見せています。島津貴久と一緒に彼のお母さんが臨席していて,その絵を見て自分もこの絵を欲しいと願います。でも一つしかないのであげられないと言うと,彼女はこれをどのようにして作ったらいいのか教えてくれと頼みます。フランシスコ・ザビエルは,油絵なので,日本で日本画のようにすることはできない。でも,将来日本でも出来るようになるでしょうと答えました。実際,それから40年経って日本に絵画学校が出来て,1622年の殉教の図とかレオナルド木村の殉教の図とか,こういうものが全部日本人の画家の手によって描かれることになります。鹿児島から少し離れたところに市来という所がありますが,そこの城主は新納伊勢守でした。フランシスコ・ザビエルはそこに住まっていた彼の奥方と子どもたち,家臣に洗礼を授けています。そしてこの市来の代表者が,伊勢守の家老であった,名前が分かりませんがミゲルという人です。フランシスコ・ザビエルは,鹿児島を去るときにその聖母子像,聖母子画,祭壇の上に載せておく絵を鹿児島に残します。それから,婦人たちにロザリオをあげています。その絵とロザリオはどこに行ったのでしょう。1605年になり,ルイス・ニヤバラという最初の日本人の神父が鹿児島を訪れています。50年経って鹿児島に行ったときにフランシスコ・ザビエルが残した絵はどうなったのかという質問をします。その質問を受けた市来の代官が,実を言うとあの絵は私が貰いました。故あってそれをフィリピンの商人に売ってしまったと述べています。ルイス・ニヤバラ神父はがっかりしてしまいます。でも,ロザリオは残っていたのです。何人かの信者が来まして,これはフランシスコ・ザビエルから貰ったロザリオですと言ったのです。鹿児島に滞在中フランシスコ・ザビエルが泊まった女性の家があります。その女性は,洗礼を受けてマリアという名前を貰いました。ルイス・ミヤバラ神父が来る前に鹿児島ではキリスト教迫害が起こり,その時マリアは鹿児島を後にして長崎に行きました。マリアは長崎ではフランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた最初の人ということで,非常に尊敬され,そこで命を終わることになります。マリアもこのロザリオを大事に持ち続けていました。フランシスコ・ザビエルからもらったものだからです。フランシスコ・ザビエルは日本に来たらどうしても京都に教会を建てたい,日本の宣教は京都を中心として,すなわち都を中心としてと考えていました。日本の教会の中心地,京都には被昇天の聖母の教会を建てたという願いを持っていました。実際,フランシスコ・ザビエルは日本にやって来るとき,スペインの商人とかポルトガル人からそのためにお金を集めて寄付を持って来ていたのです。だから,京都に教会を建てるためのお金をもう蓄えていたということです。さて,京都の教会のことを少しお話ししましょう。京都の教会が発展して,いろいろな大名も信者になり,特に高山右近が熱心な信者になっていたことで,フランシスコ・ザビエルの意向をくんで京都にどうしても教会を建てたいという希望が信者にありました。お金を集めるということで,初めて寄付金のノートのようなものが出来ました。誰それがいくら寄付したという台帳です。日本人たちは初めて自分たちの教会を自分たちのお金で建てていこうとするのです。外国から来た神父さんからお金をもらうだけではなくて,私たちは自分の教会を建てようと決めます。ところが,場所が狭いのできちっとした教会が建てられない。どうしても小さな教会になってしまうので,それでは上に伸ばすということで3階建ての教会が出来上がります。それが有名な教会になりまして,南蛮寺と呼ばれて日本の歴史にも残ることになります。当時3階建ての建物というのはあまりなかった時代です。ところが周りの人がものすごく反対します。というのは,3階の上から下を見下ろされると,特に女性たちは上から神父たちが見下ろしているので,これは非常に困るという訴えを起こします。ともかく3階建ての教会に織田信長自身が賛同して寄付をします。これが京都の教会のことです。こういう風に書かれています。「この教会の名称及び守護者として選んだのは,被昇天のサンタ・マリアで,これはこの記憶すべき日にフランシスコ神父が日本に来て薩摩の国に着き,福音の良い便りをこの地方にもたらしたことを記念するためであった。」いずれもマリア様をいつも考えるという日本の教会の伝統がこういう風にして生まれています。
さらに,日本の教会で一番最初に建てられた教会と言っても良いのが大分です。大分では,被昇天の聖母という名前を使いませんでした。1557年,非常に早い時期,ザビエルがいなくなって7年経って最初の教会が建てられます。この教会は「慈しみの聖母」に捧げられました。どうして「慈しみの聖母」という教会にしたかと言いますと,当時宣教師たちが日本にやってきたとき,日本では間引きや子捨てが多いこと,ハンセン氏病の人が道端に捨てられて死んでいくこと,それから生活苦に追われて自殺者が多いことに気づいたからです。これらのことを考えたときに,日本で一番最初にする仕事は乳児院であり,捨てられた子どもを拾うということからでした。さらに大きくなった子供のために孤児院とか養育院を作りました。この子どもたちのために牛を飼って牛乳を搾り,育てました。当時日本ではそういう習慣はありませんでした。さらに病院を建てて,ハンセン氏病の病棟を別に作ります。大分の教会は最初から貧しい者の教会と呼ばれたのです。インテリとか大名とか侍とかが全然入ってこず,社会の中で差別されている人たちが入ってくる教会,それが大分教会の特徴だったわけです。こういう中で,宣教師たちは大分の貧しい者の教会をその助けとなる「慈しみの聖母」に捧げると決め,こうして,大分教会は「慈しみの聖母教会」と呼ばれることになります。
では長崎ではどうだっのでしょう。長崎の町に船が入って来るとき最初に目にするのは聖母の像でした。マカオやゴア,それからポルトガルのリスボンも同じように,山の上に白い塔のある教会を建てたのでした。今でもベレンの塔をリスボン港に見ることが出来ます。すべて,ポルトガル人が入る港には白い塔のある教会をつくったのです。日本では現在,長崎の美術館があるところ,立山の上の方に一つ教会を作りました。これが「山のサンタ・マリア教会」です。そしてポルトガル人たちは日本にやってくるときは必ずその教会に行って,航海を守ってくださったことを感謝し,ミサをお願いする。そして日本を出発するときにはその教会で安全を願ってミサをお願いし,長崎の港を出て行ったのです。山の白い教会の塔が見える時,みんなでサルベレジーナを歌ったということです。そして,修道会の神父ではなくて教区の司祭が初めて責任を取った小教区が山のサンタ・マリア教会です。教区の教会になった由緒ある教会です。いろいろ違う名称ですが,決まって「マリア様」,「サンタ・マリア」を入れるのが日本の教会の特徴です。すべての教会はサンタ・マリアに捧げられています。長崎は全員信者であり,神学生も多く,印刷所もあり,いろいろなものが固まってくるときに,長崎にはきちんとした教会を作らないといけないと,信者は考えます。こうして岬の教会というのが作られます。今の長崎県庁があるところ,今は埋め立ててあるので下にも行けますが,その当時はまっすぐ下ったらすぐ港だったのです。だから港から岬がすぐ見えるということで「岬の上の教会」と呼ばれていました。長崎の教会は司教がいる教会で,一番大事な教会だということもあり,やはりフランシスコ・ザビエルの意向を汲んで被昇天の聖母に捧げます。こうして1601年の8月15日に定礎式をし,10月の21日には落成式をします。
また時代が下ります。明治時代になってプチジャン神父様が大浦天主堂でお祈りしているとき,長崎の信者たち,浦上の信者がやってきます。浦上の信者をプチジャン神父様は大浦天主堂の会衆の方から向かって右側にある,あの小さなマリア様の前に連れて行きます。すると,浦上の信者は「サンタ・マリア様だ。イエズス様も一緒にいる」と,叫びます。すなわち,フランシスコ・ザビエルが残した聖母子像,聖母マリアと子どもを抱いたマリア様です。これは聖母マリアが信者の心に400年もの間刻みつけられていたと,こんな風に考えたらいいでしょうか。こう考えますと,日本の教会とマリア様というのはとても大きなつながりを持っています。現代,どこの教会に行ってもルルドのない教会はないと言って良いぐらいです。カトリック教会はどこの教会にも,マリア像があります。こういうことを考えながら,今日のルルド祭を一緒にお祝いする良い機会にいたしましょう。
※司教様チェック済み