復活の主日ミサ説教

2009年4月12日
於:桜町教会

 ご復活祭と申しますと,イエスが復活したことに弟子たちがものすごく感激したと思われるかもしれません。でも今読まれた福音や,次の日曜日,それからその次の日曜日にも読まれる福音でも,実際は弟子たちは復活を信じていません。教会が始まるその時,聖霊が下って初めて復活したイエスを信じることができるようになります。だから今日の復活を読んでいて復活がすばらしかったと言うよりは,今から教会が発足する聖霊降臨の日までの50日間,ゆっくりと復活という意味を深めていくことが大事であるということを私たちに分からせています。
 典礼歴の中では今から聖霊降臨までがひとつのブロックになっています。復活の意味が分かるのはこの時期なのです。今日の福音ではマグダラのマリアが墓に行きますと,石が取り除かれていたと書き出されています。「石が取り除かれた。」石というのはどういう事でしょう。復活祭とは石が取り除かれる状態を表します。心にしこりとして残っているもの,これが石です。神様はこの石を取り除いてくださる,これが復活なのです。その石というのは,罪であり死なのです。具体的にはわだかまりとか,嫉妬とか,争いとか,妬みとか,憎しみといったものです。こういったものが私の中にくすぶり続けて,しこり,あぶくみたいなものになっている。これを神様が取り除いてくださったという意味で復活があります。それでも,このしこりやあぶくというのはその根っこの所に深く残っています。この根っこにあるものを滅ぼしてくださる,これは神様しか出来ないのです。いくら人から許されても残ってしまうもの,これを神様は取ってくださるのです。この私たちの中にくすぶり続けている,根っこにあるこの罪をきれいにしてくださるのが復活された主なのです。この私たちの石である罪,これを取り除いてくださるのは神様だけです。あの方はすべてを取り去ってくださり,新しい命の息吹を私たちにお与えになります。私たちの石による生活とは,仕事のこと,生活のこと,人間関係のこと,自分自身のこと,いろいろなことを通して生まれてくるしこりです。そしてその根っこには自分から抜けきれない罪があります。神様はその根っこにある,私の罪の中枢に触れてくださいます。これが救い,これが復活ということが言えます。
 自分の根っこにあるこの罪,根っこにあるこのしこりに気づかない人は,復活とか救いということをなかなか理解できません。石にさらされている,この世の思いで一杯になっている限り復活の体験はなかなかできません。自分の力だけで何とかしようとしている限りにおいて,復活の信仰というのはなかなか分かりません。復活の信仰というのは神様に頼って.自分の根っこにある一番深いしこりを取り除いてくださいという願いにあります。だから大切なのは,あの方,主なる神様に頼るということです。信仰というのは頼る心,すがる心,これを指しています。その反対は自分で何でもしようという心,自分でできると思う心,これが私の根っこの中にしこりとして残っていてすべてが不調和になっていきます。
 復活された主は,マグダラのマリアに,あるいは弟子たちに自分から会いに来られます。復活というのは主が会いに来られ,主に出会って初めて私たちに信仰が可能になります。私があの方に出会いに行くのではない。あの方が私に会いに来てくれる。その時に私に信仰が与えられるという意味を表しています。この意味で,どうぞ私の所に来てください,私の心の一番深いところにある根っこにあるこのしこり,この罪,このいやらしさ,醜さ,これをきれいにしてくださいと願うことが復活祭の祈りです。

 振り返ってみますと,私たちは何年生きてきたのでしょう。長いか短いかその過去を振り返ってみると,いろいろな過去のトラウマがあるかもしれません。いやきっとあるだろうと思います。憎んだこと,傷つけたこと,その他数えればきりがないほどのことが心の奥底にトラウマとして沈み込んでいて,私たちに深い重しになっています。こうしてトラウマは大きな傷となり人間の力ではどうしようもなくなります。はては無常観におそわれてしまいます。それぞれ振り返ってみたら,いろいろな傷が私たちにあることにきづきます。その深い傷に触れていただくこと,それが復活です。主は私の一番深いところにあるそのトラウマ,深いところにある傷,これに触れて,私を新しい命に復活させてくださるのです。これを信じるのが,私たちの信仰です。この傷を癒してくださるのは主イエスしかいないのです。こうして復活の主に出会ったことで,弟子たちが変えられていきます。

 聖霊降臨を待つ間ゆっくりと,私ではなく主がしてくださるという思いに主は変えていってくださいます。私たちは今日復活祭をお祝いしていますが,それは聖霊降臨まで自分を変えていく出発点に立っていると考えたらいいでしょう。今は変わっていくスタート点。何に変わっていくのでしょう。自分の思いにとらわれるのではなく神の思いにとらわれ,神の手に任せて生きてみるという思いに変わっていく,これが復活節の主な意味なのです。今年のあなたの復活祭はいかがだったでしょう。聖週間の中でしっかりと自分を見つめたでしょうか。光・水・パンに生かされた自分の信仰生活をもう一度深めるということを考えられたことがあるでしょうか。最初も申しましたが,来週もその次の週間も,復活の場面が語られていきます。なかなか弟子たちが信じない場面がずっと続いています。それをただ読み流すのではなく,どうして復活の主が分からない自分なのかに気づく期間にして欲しいものです。

    ※司教様チェック済み